ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』ヤニス・バルファキス

資本主義ではもう駄目だとして、何か「別のやり方」が必要だとして、ではどのような社会を想像すればよいのか。「想像」というのは、今の段階では、まったく指針となる未来像がないから。ざっくりとだが、資本主義と共産主義という大枠でしか世界を考えることができない私たち。しっかりと飼い慣らされてしまっている私たち。

そんなことを考えていたときに、ふと思った。サイエンスフィクションがとっかかりになるのではないか。ちょうどその頃に読んでいたのがサイエンスフィクションの名作、ハインラインの『夏への扉』で、その影響も大きい。それ以来、少しずつSFを読んでみようと思いながらも、結局あまり手を付けずに半年以上経っていた。そんな中、旅先の本屋さんで見かけたのがこの本。

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『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』。なんともぶっ飛んだタイトルだ。原書のタイトルはもっとおとなしくて『Another Now: Dispatches from an Alternative Present』。もう一つの「現在」、パラレルワールドからの知らせといったところか。想定読者を考えれば、日本語タイトルはいい線を言っていると思う。

それにしても不思議な本だ。サイエンスフィクション+経済学書という形なのだが、本屋に並べるとやはりSFコーナーになるのだろうか。経済学のコーナーのほうがよりしっくり来る気もする。内容はSFのように読みやすく、それでいて現実社会のことも学べる。SFの世界を堪能しながら現在の社会・経済の問題点を暴き、ある一つの「別のやり方」を提示する。途中はサイエンスフィクション色が薄れてしまったが、最後にはしっかりとSFしてくれてて、サイエンスフィクションとしてもしっかりと堪能できた。

パラレルワールドという形で提示される「別のやり方」。著者はこの新しい社会をどこまで信じているのか。部分的にはいいアイデアも多いし、今の自分にはかなりの理想郷にも見える。しかし、おそらく著者本人もあくまで一例として出したのだろうと思う。そもそも本書内でも完璧な社会としては描かれていない。読者も交えてこれから想像していこう、そういうことなんだろう。

本書では2008年を大きな転換点として、別の世界に分岐したことになっている。思えば、たしかに大きく流れが変わりうる時代だったのかもしれない。その後のオキュパイ運動などもニュースでは見てはいたが、どこか別の世界の話だった。ただ、個人的には、2011年の3月11日。あれは大きな転換点となる気はした。おそらくほとんどの日本人が多少は心に抱いたと思う。しかし、日本は、日本人は何も変わらなかったし、むしろ社会は悪い方向へ一歩一歩進んでいる。

そんな自分にはアイリスの言葉が心に響いた。

ものごとが改善する前には、いったん悪化しなければならないこともある。

ああ、本当にそうだと信じたい。私たちの社会には、徐々によくなるか、あるいはある程度まで悪化してから革命的によくなるか、この2つの方法があるとする。人類の歴史からすると、私たちは後者のやり方が得意なのかもしれない。そうであれば、ひょっとすると、まだこの世界も捨てたものではないのかもしれない。僕個人にはアイリスのような情熱はない。でもそのような指導者がいたらどうだろう。もし希望が見えさえすれば。確かな未来像が想像できさえすれば。未来はまだわからない。

 

『愚か者同盟』ジョン・ケネディ・トゥール

ピュリツァー賞受賞の爆笑(?)労働コメディ『愚か者同盟』。社会批判も散りばめつつ、あくまでブラックコメディ。しかし最後には、これはロマンス小説だったのか、青春小説だったのかと錯覚してしまう不思議な物語。

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英語圏では必読書によく挙げられ、いつか読みたいと思っていたのだが、ながらく訳書がでなかった。コメディ要素が強いこともあり、翻訳が難しい(日本語話者には受けが悪い)ということもあったのだろう。原書も一度トライしたのだが、少し癖のある書き出しだったと記憶していて(あるいは単なる英語力不足)、そうそうとギブアップしていた。

そしてなぜか今、日本語訳が発売。Twitterで見かけたときには結構驚いたのだった。読んでみれば、今こそ読まれるべきだと感じてしまう。このタイミングでの訳書もきっとフォルトゥナ(運命)なのだろう。

主人公はイグネイシャスという名のアラサー男性。ありとあらゆる意味でひねくれていて、自己中。家族に迷惑をかけ、近所でも厄介者の引きこもり。世の中を冷笑し、あくまで自分は天才だと信じるが、社会的にはただの(それも一級品の)変人。そんな彼が、母親の自動車事故をきっかけに労働の社会に放り出されるという物語。イグネイシャスはいやいやながらも、俺様のおでましで〜い、と意気揚々と労働の世界へと歩き出す。周囲はそんな彼に振り回されるのだが、彼から放たれる「我」というオーラが不思議な風を起こし、それが竜巻のような渦を生み出す。登場人物が吸い込まれるように、最後にはまさに大団円へとつながっていく。

こんな不思議な物語をどう終えるのだろうと、一読者として、最後の数十ページは心配でならなかった。ひょっとすると悲劇的な最期を迎えるのではと恐れていたのだが、さすがはさすが。結末が見事!これほど満足できるエンディングを味わえた小説はここ数年なかったように思う。まさに、青春小説だったのか?と錯覚してしまうほど、希望と可能性を感じる素晴らしいエンディングであっぱれだった。

イグネイシャスという存在が大きすぎて、労働の馬鹿馬鹿しさであったり、そのへんが少し薄れてしまっているのが今からすると残念ではある。それにしても、イグネイシャスの態度には見習いたい部分もあり、如何に自分が社会的に不適合なのかを再確認することとなった。

 

『みんなの寅さん from 1969』佐藤利明|「男はつらいよ」2周目完走

コロナ禍に入ってから見始めた「男はつらいよ」シリーズ。すっかりファンになってしまい、先日とうとう2周目を完走。自分のことながら、合計50作もある映画をこの短期間で2周も見てしまうんだから、少しあきれつつも、3周目はいつ始めようかと、まだまだまったく飽きはない。本当に不思議なシリーズである。

思えば1周目は、Wikipediaを見ながら出演者や撮影地、こぼれ話を確認しながら見ていた。さすがファンが多いシリーズだけあって、Wikipediaも相当のボリューム。かなりの作品数にもかかわらず、作品ごとの解説も相当細かい。

ja.wikipedia.org

2周目のお供となったのは、佐藤利明氏の『みんなの寅さん from 1969』という鈍器本。

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ラジオ番組が元のようだが、各作品を取り上げたエッセイ集のようなもので、それ以外にも渥美清の生涯についてもまとめられていたり、撮影地や出演者などのデータベースも巻末に収録されていたりと、まさに決定版。この種の本はほかにもあるようで、これから少しずつ拾っていくのが楽しみだが、古書以外で普通に本屋で買えるのは本書くらいじゃないかと思う。コロナ禍に入り在宅時間が増えた今(特に最近は動画配信サービスでも扱いが広がっていることもあり)、自分のようにガチではまってしまった人ならぜひ手元に置いておきたい一冊。

先日「寅さんの何がそんなにいいんだ?」と聞かれて回答に困ったことがあった。自分でもよくわからない。「男はつらいよ」はロードムービーでもあり、ファミリームービーでもあり、また昭和・平成の日本の風景が残されている記録映画でもある。なにより渥美清の語りの素晴らしさが光るコメディ映画でもある。ときに、これは倍賞千恵子の作品じゃないだろうかと思うくらい、さくらの役が輝くところもある。寅さんが帰ってきたときに「お兄ちゃん!」といつも本当にうれしそうに喜ぶ姿。あの関係性というのは、あれだけ続いたシリーズだからこそ生まれてくるものだと思う。2周目では倍賞千恵子の何気ない演技になんど唸ったことか。博役の前田吟の芝居くさい芝居も、これはこれでいい。2周目に入って、これぞ博だと思えてきた。おばちゃんの安定した存在感。3代目まで続いたおいちゃんも、それぞれに個性があって楽しい。満夫が前面に出てきた最後の数作はやはりスピンオフ感が拭えないものの、2周目ともなると、これはこれでいいんじゃないかと思えてきた。

さて、3周目はいつ始めようか。英語には「comfort show」といった表現がある。疲れたとき、落ち込んだとき、どん底のときに正気を保たせてくれる、何度繰り返し見ても笑えたりほっとできる、実家のような存在の作品のこと。個人的には海外ドラマの「フレンズ」や「オフィス」。日本語ならダウンタウンの昔のガキの使いやコントがそういう存在だったのだが、それに最近加わったのがこの「男はつらいよ」シリーズ。安心して繰り返し見ることができる作品が増えたのは単純にうれしいし、心強い。

さあ、3周目はいつ始めようか。

 

『『男はつらいよ』の幸福論』名越 康文

またまた飽きもせず、寅さんネタの本。

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今回は精神科医による著作ということで、若干異色。名場面を振り返りながら、精神科医が車寅次郎やほかの登場人物の深層心理を探る。

寅さんはなぜあそこまで女性に対して及び腰なのか。彼は草食男子の走りだったのか?という話から、マドンナの生き方、無口な父親像、プロポーズを恐れる男性陣、そして故郷と旅という本質的なテーマまで多様。精神科医が・・・というところで少し構えてしまうが、平易な内容で、専門用語もほぼ使われていない。もう少し難しい内容を期待していたのだが、どちらかというと寅さんテーマのエッセイといったところで、これはこれで楽しい。

あれだけ続いたシリーズとはいえ、あくまでコメディ映画。深読みにどれほどの意味があるか疑問ではありつつも、それでもいろいろ広げたい、もっと考えたい、語りたい!というのがファン心理というもの。本書も一ファンとして十分楽しめた。ああ、なるほど・・・と思うところから、それは考えすぎでしょ・・・というところまで、リアル人脈(そもそもそれがほぼないのが問題だが)の中では寅さんの話をつっこんでできる人がいないので、ただただ楽しい時間だった。

 

韓国映画『サスペクト 哀しき容疑者』

韓国お得意の北朝鮮がらみのスパイ映画。主演はコン・ユ。寡黙なキャラクターがよく似合っていた。バッキバキのボディにファンは唸ったことだろう。

韓国版のボーンアイデンティティー、あるいはグラディエーターか。一瞬、グッドウィルハンティングを思い起こすシーンもあったが、あれがオマージュなのかどうかわからない。たぶん勝手な思い込み。

北朝鮮スパイの悲しみ、韓国社会の権力闘争、権力欲、別に真新しいものではない。ありがちな内容ではあるが、ある意味期待を裏切らない。期待通りに楽しめる。思えば、このような内容があるあるネタになってしまうところに、南北分断の悲しみがあるのかもしれない。

2014年製作。コン・ユといえば『新感染』や『トッケビ』だが、それよりも前の作品。Wikiによると早くからドラマで有名になったらしいので、最近売れた俳優というのは僕の勝手な思い込みだったようだ。そもそも人気がなければ『新感染』や『トッケビ』の主演にもなっていない。

今回の脇役陣も輝いていた。パク・ヒスンは今回もはまり役。悪役で登場したチョ・ソンハも気持ち悪いくらいはまっていた。権力狂いというか、韓国映画に出てくる権力者はどいつもこいつも気持ち悪くて素晴らしい。

 

『最後の付き人が見た 渥美清 最後の日々 「寅さん」一四年間の真実』篠原靖治

渥美清の最後の付き人が語る渥美清の思い出話。渥美清が亡くなるまで14年の間付き人を務めたそうだ。特に晩年の渥美清の姿が印象的。

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付き人といっても基本的には『男はつらいよ』の撮影現場が中心だったようだ。渥美清との関係性は兄貴と弟分、『男はつらいよ』でいうところの寅次郎と源ちゃんか、登か、ポンシュウ。あるいは満男との関係、おじさんと甥っ子といったところだったようで、著者から見た渥美清は常にかっこいい。渥美清も基本的には弱い部分を見せなかったのだろうと思う。小林信彦の『おかしな男』を思いだしながら読むとその違いが見えてきて興味深い。とはいえ、本当に最後の時期になると、少しだけ甘えることができた関係でもあったのだろう。その辺の関係性がよく見えてくる。

著者の語りもいい。おそらくあまり嘘がない人間なのだろう。生の声。倍賞千恵子の本も思い出してしまう。渥美清が愛したであろう理由が少しわかるような気がする。関係性でいうと、寅さんとポンシュウがやはり一番近いのかな。「ったく、本当にお前はしょうがないね」といいながらも、どうしても目をかけてしまうような。

渥美清と、後期にポンシュウ役で活躍した関敬六との実際の関係も興味深い。実際は関敬六が寅さんで、渥美清は御前様のような立場だったようで、なんだか笑ってしまった。

著者が目撃したという山田洋次との関係・場面も面白い。「あの人は、何食ってんのかね・・・」という話には笑ってしまうし、「米を斜めに・・・」という発想もさすがだ。いやはや、やはり渥美清という人間は発想が面白い。

でも今思えば、永六輔の言葉じゃないが、やはりどこかで誰かがタオルを投げるべきだったのだろうと思う。個人的にも満男が主役を肩代わりし始めた頃以降については、スピンオフのような感覚だし、これじゃないんだよな・・・という気はしてしまう。後知恵とはいえ、知床慕情か、寅次郎物語。あれが38と39作だから、あの頃に終われていれば(あるいは次の40作を最終作としてリリーを呼ぶなり有終の美を飾ることもできただろう)、渥美清にもあと10年近く残ることになるので、少しはゆっくりしながら、ほかの役にも(裏方に回ったとしても)挑戦できていたんじゃないかと思う。ひょっとすると、そのタオルを投げる役が、渥美清本人が病状を伝えた数少ない人間の一人であっただろう、この著者だったんじゃないかという気もする。

 

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『人間の絆』サマセット・モーム(新潮文庫)

この世に生まれて四十数年たち、人が生きることについて、自分なりにある種の答えというか、見方ができるようになった。それは自分の経験から来るもので、楽しかったことやつらかったこと、主に後者になるが、あくまで自分の半生から導き出したものだ。自分が経験してきた、非常に(平凡ながら)独特な体験や感情から見えてきたもの。そう、あくまで自分だけの「結論」だと思っていた。

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サマセット・モームの『人間の絆』を読みながらただただ驚いた。ここには自分のことが書かれている。状況はまったく違えど、ここの体験はまさに自分が四十数年生きてきた体験そのものだ、と。

著者本人による「序」(面白いことに最後に掲載されている)にはこうある。

『人間の絆』は自伝ではなく、自伝的小説であって、事実とフィクションが分かちがたく入り交じっている。ここに描かれた感情はわたしのものだが、実際の出来事がそのまま描かれているわけではなく・・・(後略)

ここに描かれた感情はあなただけのものではないぞ、とモーム氏に伝えたい。もうそれだけ。

いつの日か、宇宙人と話す機会があり、「人間というのはどういうものかね」と聞かれれば、迷わずこの本をすすめたい。少なくとも、僕が思うところの、一人の人間として生きること、それに関わる喜び、痛み、憤り、不安、あらゆる感情がほぼこの本に書かれている。

さて、今回読んだのは新訳として最近出版された新潮文庫版。訳文は新訳らしく読みやすく、とくに問題はなかったのだが、訳者あとがきにはこうあった。

高校の頃、中野好夫訳で読みながら、主人公のフィリップを、ほんとにいやなやつだなあと思ったのをよく覚えている。訳してみると印象が変わるのかと考えていたのだが、意外とそのままだった。

フィリップの行動には「あちゃー」と思うところは多かったが、「いやなやつ」という印象はなかった。全編を通して「自分を見るようで心が痛い」という感情が占めていた。なんだかこの訳者あとがきでは、個人的に攻撃されているようでつい笑ってしまった。もちろん訳者を責めているわけではなく、あくまで僕が描いてきた人生の「模様」が、この訳者のものとは相当違うということだろう。

いずれにしても、今度は別の訳で読んでみるか、原書に挑戦してみたい。

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