ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

韓国ドラマ『ある日~真実のベール』

韓国の裁判・刑務所クライムサスペンスドラマ。

小さな過ちから大きな過ちへとつながり、殺人現場に居合わせてしまった大学生キム・ヒョンスと、彼の弁護士となり彼を弁護しながら真実を追う弁護士シン・ジュンハン。容疑者と弁護士という関係ながらも、あくまでそれぞれの環境で、それぞれの問題を抱えながら前に進もうとする二人の姿が描かれている。

全8回と見やすいボリュームだが、描写不足は否めない。刑務所の兄貴役のバックストーリーをもっと知りたかったし、検察と警察が見せる強い意志の背景も結局何も無かった感があってがっかり。主人公ヒョンスの変貌もあまりに急だったように思えたが、意外と人間の精神というのはこのように一瞬で壊れてしまうものなのかもしれない。

 

『「日本の伝統」の正体』藤井 青銅

二礼二拍一礼というのがどうも苦手である。

神社巡りは人並み以上に好きで、国内旅行に出かければまず神社を調べる。別に信心深いというわけではなく、あくまで歴史的背景に興味があって回るのだ。しかし(神社から見ればはた迷惑なのだろうが)せっかく訪れたのに基本的にお参りもしない。説明看板にはすべて目を通し、気になったところはスマホにメモしたりその場でWikiで調べたりと、熱心な観光客ではあるのだが、やはりそこに神さまなるものがいるとは思えず、熱心な参拝者を横目に最後にはそそくさと帰ってしまう。

そんな僕でもちゃんとお参りすることがあるのだが、慣れていないこともあり、いつも二礼二拍一礼だったか、二拍二礼一拍だったか、わからなくなってしまう。周りに人がいるにも関わらず(どちらかと言えば周りに人がいるときに限って)間違えてしまい、最後にパンっと手を打って「なんか変だな・・・」と思いながら終わることもある。今考えれば、交代で2-2-1になるということだけ覚えておけば、最後に静かにお礼して終わるのだろうから、自然と「二礼二拍一礼」になるのだが。

いつだったか、いいかげんちゃんとやり方を覚えておこうとGoogle先生に聞いてみたことがある。そのときにわかったのが、二礼二拍一礼というのは意外と最近決まったやり方であること。最近と言っても明治時代なので古いと言えば古いのだが、ほとんどの神社は二礼二拍一礼の歴史よりも古いだろうから、やはり新しい作法だろうと言える。特に一桁世紀からあるような有名な神社の神さまなんかは、「最近はみんな変わった方法で拝みに来るわい」とでも不思議に思っているのかもしれない。

日本の伝統とか、日本では昔からどーのこーのとか、よく耳にするが、「昔から」っていうのは具体的にいつからを言っているんだい?という素朴な疑問に答えているのが本書。特に、実は歴史が浅いというものが中心に紹介されている。

個人的に思い入れの深い二礼二拍一礼もあれば、初詣、七五三、恵方巻き、正座、喪服、漬物、民謡、武士道など、意外と(想像していたよりも)歴史の浅いものもあった。一方で、外国語が起源のことわざがあったり、また日本初という説もあるマトリョーシカの話など、興味深い内容も多い。

歴史系トリビア本と言ってしまえばそれまでだが、「伝統」「昔ながら」という言葉に少しだけ疑いの目を向け「騙されないよう」気をつけようという気にはさせてくれた。

 

『アリエリー教授の人生相談室 行動経済学で解決する100の不合理』ダン・アリエリー

行動経済学の先生が人生に関する素朴な疑問に答えてくれるありがたい一冊。ボリュームは少なめ。著者は『予想どおりに不合理』で人気のダン・アリエリー。なんだか聞いたことのある話が多かったのは、たぶん『予想どおりに不合理』で紹介があった話だろうと思う。

残念だったのは、回答の背景になっている行動経済学が紹介がなかったこと。「主著のここに詳しく書かれているよ」とあれば、より理解を深められるだろうに、これはとにかく残念。またウィットに富んだ回答なのはいいが、行動経済学とは無関係な回答も少なくない。ただしこれは、自分の理解が追いついていないだけという可能性もある。

気軽に読める反面、行動経済学自体はあまり学べない。アリエリー氏の主著を読んだ後がいいのだろうが、それだと少し物足りない。むしろこちらが入門書なのかもしれない。

 

『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』スティーヴン・ウェッブ

旅行中に見つけた思い入れのある本。この本に出会ったのは10年近く前。アメリカ旅行中に立ち寄った公立図書館で、本書の原書である『Where is Everybody?』を見かけた。面白そうだとメモし、日本に戻ったら読もうと思い、まあ当然忘れてしまっていた。そして昨年頃、その新版が出ていて(アメリカで見かけたのは旧版で50の理由が書いてある版。新版は75に増えている)、さらにその日本語訳も出ていたことを知って、すぐに取り寄せた。そしてさらに積ん読で熟成させること約1年、ふと宇宙の話を聞きたくなって、手に取った。

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フェルミパラドックスがテーマの本書。フェルミの問いに対する答えが75つも収録されている。いわゆるLayman向けの、事前知識がいらないタイプの本ではあるが、75もの「解」が収録されているだけあって、その視点は多様で、やはりある程度の前知識がないと厳しい。個人的には半分もちゃんと理解できていない。

ja.wikipedia.org

それにしてもだ。75も解があれば、一つくらい「これだ!」というものに出会うかと思いきや、どれもそこそこ納得できるのだが、決定打に欠けている(あるいは難解すぎて、何を言っているのかよくわからない)。著者もいちいち疑問を投げかけているので、その影響も受けている。全体を通して面白く読んだが、結局自分なりの答えもなんだかまだぼんやりして、消化不足な感じも残った。著者のバイアスに乗っかってしまっている可能性も大。

「こんなに広い宇宙に、知的生命体が人類だけなんて、考えられない」

たしか映画『コンタクト』のエンディングでもジョディ・フォスターが似たようなことを言っていた。実際には、私たちには宇宙の実際の広さを想像することすら難しい。天文学者ならどうかわからないが、僕みたいな素人宇宙ファン程度には想像すら難しい。つい先日もNASAの新しい宇宙顕微鏡が撮影した遙か彼方の銀河の画像がニュースを賑わせた。あの驚くほど美しい写真。夜空のほんの一部にも、ちゃんと目を凝らせばあれだけの世界が存在している。そして実際にはまだまだ見えていない部分もある。360度あれだけの星、銀河があると思うと、まさに「頭がパンクしちゃう」のだ。恐怖すら感じてしまう。

しかし著者は、本人の説となる75個目の解で、「本当にそうだろうか」と問う。想像すらできないほど広い宇宙に我々しかいないとは考えられない、というのは、確かに直感的ではあるが、本当にそうなのか、と。これは面白い問いではある。

じゃあ、読者としてはどう思ったのかというと、繰り返しになるが、結局わからなかった。とにかく宇宙というのは、生命というのは、知性というのは、よくわからん。読めば読むほどわからなくなる。実際に、人類としてもよくわかっていないようだ。それこそSF作家が描いてきた想像力溢れる物語からも多く刺激を受け、これだけの「解」「説」が集められていて、人類の想像力の素晴らしさを感じられるべきなのかもしれないが、読み終わって残ったのは、(フェルミパラドックスについて言えば)結局私たちには何にもわかっていないじゃないかという感覚。

でも、それはがっかりしたということではなく、それでいいんだという気がしている。こんな感想では元も子もないのだが、結局私たちからは(少なくとも私が生きている間プラスα数百~数千年?)知ることはできないだろうということ。だから気長に連絡を待とう。そして想像し続けよう。別に急ぐことでもないはずだ。たぶん。

『人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか』中川毅

気候変動と聞いて頭に浮かぶのは、環境破壊、二酸化炭素SDGs、グレタさん、などなど。巷でも騒がれている、現在の人間の活動による今後50~100年の地球温暖化の問題である。ほぼ手遅れに近いとされている近年にやっと世界的に盛り上がってきた、あれである。個人的にも、これはまずいのではないかと焦ってきたのはここ数年だから、当然人のことをとやかく言えない。

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そして、わかっているようでわかっていない、この気候変動と温暖化の問題。その辺を理解を深めようと手に取ったのが本書。十万年のデータから知見が得られるのなら、今後どうすればよいのか見えてくるだろう。だってタイトルにもそうかいてあるんだから。

蓋を開ければ、過去のことはざっくりとながらよくわかった。実際の研究者の話だから信頼性も高い(自身の研究の話が軸になっている)。長い地球の歴史の中で気候がどのように変わってきたのか。今が非常に特異な期間であることも、いろいろと学べた。しかし、肝心の「これから何が起こるのか」は結局わからなかった。地球規模の気候というのは本来予測つかないものである、というのが「これから何が起こるのか」の結論になっているとも言える。いや、それこそが気候による危機の本当の意味かもしれない。

人間の活動と温室効果ガスにより地球が温暖化しているのは(本書ではそれほど取り上げられていないが)ほぼ間違いないだろう。温暖化の責任が100パーセント人間の活動になかったとしても、ある程度の関係性が明らかな部分については見直すべきという立場は変わらない。しかし地球の気候が本来持つ振れ幅というのはもっと大きい。思えば自分が若い頃は、どちらかというと寒冷化の心配の方が大きかった。今私たちが過ごしている時代は「不自然に」長い間氷期ということらしい。そもそも安定期の期限切れが近かったのか。人間の活動による温暖化が寒冷化を引き留めているのか。あるいはそれがバタフライ効果のように、暴力的とも言える不安定期に入る引き金となるのか。

今年もそうだが、ここ数年、世界中の気候がおかしい。先日もイギリスで観測史上発の40度超えを記録している。日本でも○○年に1回の規模の災害が頻発している。「何かがおかしい」というのは、日本だけでなく、世界中で共通のようだ。

結局私たちはどうするべきなのか。望ましいのは安定期が続くこと。できることは何か。技術力を高めたり、農耕依存から脱却したりして、人類が種としての適応力を高めることぐらいか。

SDGsとか地球温暖化とか、あれ何だったんだろうね」と振り替える時代が来るのかもしれない。

 

 

『波止場日記―労働と思索』エリック・ホッファー

ゆっくり、とにかくゆっくり、毎回数ページずつ読んだ。他人の日記を読ませてもらうのだから、それだけ丁寧に読まなければ失礼だろう。

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ホッファーについては最近『大衆運動』の新訳が発売されている。今こそ読むべき本なのだろうか(常にそう言われ続けているとは思うが)、それとも日本で単に受けがいいのか。いずれにしても非常に喜ばしい。ちょうど再読しようと思っていたから、今度は新しい訳で読んでみたい。

さて、これはそのホッファーによる日記。というと膨大なボリュームになりそうだが、これは1958~59年のほんの1年間の日記である。この期間はホッファー自身によると「やっかいな」時期であり、頭を整理する意味で書き始め、気付いたらやめていたという。そのノートをなぜ出版したのか(本人による前書きもあるので、死後掘り返されて無断で出版されたような代物ではない)。一読者からすると、そもそもホッファーの著作物はアフォリズムの形式が多く、そういう意味では日記であってもいいではないかと思う。またこの日記という形式だからこそ見えてくることは多い。

労働者として働きながら思索を続けるとはどういうことなのか。ホッファーの実際の日常風景が見えてくるという意味で非常に興味深い内容で、そこここにちりばめられているアフォリズムにゴクリとなる。

つい唸ったホッファーのつぶやき(アフォリズム)を以下に少し挙げておく。

教えたいという衝動――学びたいという衝動よりもはるかに強力で原始的――は大衆運動を盛り上げる一つの要因なのではなかと考えたくなる。

この衝動を加速しているのがSNSなんだろうな

人間は、成就感のもたらすつかの間の浮かれ気分を求めるために、永遠に通用する好都合な言い訳を放棄しようとはしない。

虐げられたものたちが前に進めない原因はほぼこれに収束するのかもしれない

ほとんど、あるいはまったくなんの報酬もなしに人間を働かせたい場合には、人々をファナティシズムにかりたてなければならない。熱情は技術の、そしてまた資本の代わりとなる。

現在の搾取型資本主義のしくみを一言でいうならば・・・これか

私が満足するのに必要なものはごくわずかである。一日二回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の著述を毎日。これが、私にとっては生活のすべてである。

この日記を読む限り、これは向田邦子が言っていた「やせ我慢」としての清貧ではなく、純粋にこう信じていた。ある意味、アメリカの黄金時代を生きていたのだろうと思う

彼は典型的な小知識人、つまり、観念に関心をいだいているが独創的な観念とはなにかがまったくわかっていないのである。観念は彼の人生においてどんな役割をはたしているのだろうか。おそらく、自分は高級な世界にいるのだ、現実の騒音や周期や苦痛を超越しているのだ、という感じを与えてくれるのだろう。

ホッファーの知識人批判がよくわかる。日記だからなのか、言っていることがそのまま伝わる。そして僕もすごく反省している。こういう態度は(ホッファーの言う「彼」の態度は)普遍的なもので、誰であろうと気をつけなければいけないものだと思う

私は緊張するのが大嫌いなので、野心をおさえてきた。また、自己を重視しないよう、できるだけのことをしてきた。

ホッファーに親近感を感じてしまうのは、こういうつぶやきにある。彼も何らかの不安症だったのだろうか。ホッファーも現代に生きていたら「逃げている」と批判されるのだろうか

人間の精神現象で、伝染性がもっとも強いのは、人種的な優越感である

これも万人が自身に日々言い聞かせるべき警句。この優越感から完全に自由になることは相当難しい(不可能でなければ)。それをニルヴァーナというのかもしれない

自由に適さない人々――自由であってもたいしたことのできぬ人々――は権力を渇望する

自分が権力を渇望しないのは、自由だからなのだろうか。自由に満足することを知っていることなのだろうか。簡単な言葉だけど実際は難しく、でもゆっくりと考えると不思議と腑に落ちる

専制君主は非人間化を――人々をものに変えたいと――願い、一方弱者は人間の独自性の緊張に疲れて自由選択という重荷をおろしたいと切望する。

ここ日本でも想像しなかったことが起きている現在。それでも何も変わらないのではと絶望してしまうのは、この言葉がおそらく真実をついているから

 

 

『向田邦子ベスト・エッセイ』向田 和子 編

学生の頃、たぶん夏休みだったと思う。父親の仕事の手伝いに客先にかり出されたことがあった。家では寡黙だった父。大人になった今では対等に話せるようになったが、自分が高校生の頃までは父が怖かった。中学1年の頃、英語の宿題だったかテスト用紙だったかを見られ「三人称単数すらわかってないのか」と怒鳴られたことをよく覚えている。貿易を営む父にとって語学の才能がなさそうな息子に幻滅したのだろう。

あの日、その怖かった父親が、客先ではへこへことしながら嘘みたいなお世辞を繰り返していた。これが大人の言う「社会」なのかと恐ろしくもあり、また情けない態度で客に接する父親に幻滅した記憶がある。

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向田邦子ベスト・エッセイ』に収録されている「お辞儀」というエッセイを読みながら、なんだかつい思い出してしまった。夜中に古い思い出を引っ張り出して反芻しながら、ひょっとしたらあれは父親が意図して見せた姿だったのかもしれないと思い直した。父親の思う「社会に出ること」の意味を息子に見せようとしたのだろうか。単純に人手不足で、それこそ猫の手も借りたいというだったのか。後者のような気もするし、前者であってほしいとも思う。

読者としては感度が低い自分にもこんな過去を掘り出させるというのは、やはり向田邦子というのはいいエッセイストだったのだろうと思う。

時代を感じるところも多く見られるが、それがまた今読むと味わい深い。父親との親子関係などは現代の感覚からするとかなり古くさく感じる。一方、水ようかんの話なんかは、自分も水ようかん愛好家であることもあり、変わらない良さを感じることができた。車窓から見えたライオンの話も衝撃的で、そのときの映像がありありと目に浮かぶようだ。その後日談まで笑える。出来過ぎていて疑ってしまうほどだ。

ベスト盤ということでどれも面白いエッセイばかりだが、ベリーベストをあえて一つあげるとすると「手袋をさがす」になるだろう。時代性を感じるエッセイだが(いや、当時としては、時代を牽引する内容だったのだろう)、特にこのエッセイは一気に書き殴ったような勢いというか、「熱量」がたまらない。「これが私の生き方だ」と堂々と主張するエッセイなのだが、そのプロップとなるのが手袋というのがいい。「清貧という言葉が嫌い」とはっきり言うところなんか、今の自分とは価値観は真逆に近いくらい違うのだが、その態度も気持ちがよい。高度成長期という時代もあったのだろう。もし向田邦子が長生きしていたら、平成から令和への現代を見ることができていたら、価値観はどのように変遷したのだろうか。つい想像してしまいたくなる。