『波止場日記―労働と思索』エリック・ホッファー
ゆっくり、とにかくゆっくり、毎回数ページずつ読んだ。他人の日記を読ませてもらうのだから、それだけ丁寧に読まなければ失礼だろう。
ホッファーについては最近『大衆運動』の新訳が発売されている。今こそ読むべき本なのだろうか(常にそう言われ続けているとは思うが)、それとも日本で単に受けがいいのか。いずれにしても非常に喜ばしい。ちょうど再読しようと思っていたから、今度は新しい訳で読んでみたい。
さて、これはそのホッファーによる日記。というと膨大なボリュームになりそうだが、これは1958~59年のほんの1年間の日記である。この期間はホッファー自身によると「やっかいな」時期であり、頭を整理する意味で書き始め、気付いたらやめていたという。そのノートをなぜ出版したのか(本人による前書きもあるので、死後掘り返されて無断で出版されたような代物ではない)。一読者からすると、そもそもホッファーの著作物はアフォリズムの形式が多く、そういう意味では日記であってもいいではないかと思う。またこの日記という形式だからこそ見えてくることは多い。
労働者として働きながら思索を続けるとはどういうことなのか。ホッファーの実際の日常風景が見えてくるという意味で非常に興味深い内容で、そこここにちりばめられているアフォリズムにゴクリとなる。
つい唸ったホッファーのつぶやき(アフォリズム)を以下に少し挙げておく。
教えたいという衝動――学びたいという衝動よりもはるかに強力で原始的――は大衆運動を盛り上げる一つの要因なのではなかと考えたくなる。
この衝動を加速しているのがSNSなんだろうな
人間は、成就感のもたらすつかの間の浮かれ気分を求めるために、永遠に通用する好都合な言い訳を放棄しようとはしない。
虐げられたものたちが前に進めない原因はほぼこれに収束するのかもしれない
ほとんど、あるいはまったくなんの報酬もなしに人間を働かせたい場合には、人々をファナティシズムにかりたてなければならない。熱情は技術の、そしてまた資本の代わりとなる。
現在の搾取型資本主義のしくみを一言でいうならば・・・これか
私が満足するのに必要なものはごくわずかである。一日二回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の著述を毎日。これが、私にとっては生活のすべてである。
この日記を読む限り、これは向田邦子が言っていた「やせ我慢」としての清貧ではなく、純粋にこう信じていた。ある意味、アメリカの黄金時代を生きていたのだろうと思う
彼は典型的な小知識人、つまり、観念に関心をいだいているが独創的な観念とはなにかがまったくわかっていないのである。観念は彼の人生においてどんな役割をはたしているのだろうか。おそらく、自分は高級な世界にいるのだ、現実の騒音や周期や苦痛を超越しているのだ、という感じを与えてくれるのだろう。
ホッファーの知識人批判がよくわかる。日記だからなのか、言っていることがそのまま伝わる。そして僕もすごく反省している。こういう態度は(ホッファーの言う「彼」の態度は)普遍的なもので、誰であろうと気をつけなければいけないものだと思う
私は緊張するのが大嫌いなので、野心をおさえてきた。また、自己を重視しないよう、できるだけのことをしてきた。
ホッファーに親近感を感じてしまうのは、こういうつぶやきにある。彼も何らかの不安症だったのだろうか。ホッファーも現代に生きていたら「逃げている」と批判されるのだろうか
人間の精神現象で、伝染性がもっとも強いのは、人種的な優越感である
これも万人が自身に日々言い聞かせるべき警句。この優越感から完全に自由になることは相当難しい(不可能でなければ)。それをニルヴァーナというのかもしれない
自由に適さない人々――自由であってもたいしたことのできぬ人々――は権力を渇望する
自分が権力を渇望しないのは、自由だからなのだろうか。自由に満足することを知っていることなのだろうか。簡単な言葉だけど実際は難しく、でもゆっくりと考えると不思議と腑に落ちる
専制君主は非人間化を――人々をものに変えたいと――願い、一方弱者は人間の独自性の緊張に疲れて自由選択という重荷をおろしたいと切望する。
ここ日本でも想像しなかったことが起きている現在。それでも何も変わらないのではと絶望してしまうのは、この言葉がおそらく真実をついているから