ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

『A』森達也

オウム真理教とは何なのか。あらゆるフィルターを取り除き、その実態をそのまま「生」の状態で捕らえようとしたドキュメンタリー映画『A』の副読本、いや解説本といった内容。実際のドキュメンタリー映画も並行して視聴しながらあっという間に読み終えた。

まず映画の方だが、これはすごい。何の味付けもない、撮影した映像に時間と場所程度の情報だけをのせて編集したもの。ナレーションもない。何の補足説明もない。肝となるシーンにバックグラウンドの音楽が2回ほどかけられているだけ。正直この映画だけでは何を見ているのか分からなかったかもしれない。この極限まで生のままで残した映像には、森達也監督のこだわりが当然あらわれている。オウム真理教とは、その信者とはどのような人々なのか、そしてなぜこの宗教団体があのような恐ろしいことを行えたのか、その理由を探るため、オウム側はもちろん、警察、メディア、そして世間のどれにも寄らない、あらゆるフィルターを排除した。その結果として、これしかなかったのだろう。

映画だけでは何が起こっているのかわからないため、そこで本書が格好の解説本となっている。取材の背景から、背景解説、映画には収まりきらなかったほかの信者たちの姿、さらに「主人公」となったオウム真理教広報副部長の荒木浩氏とのやり取りから、森達也氏の葛藤、ほかのメディアの「態度」、映画製作の難しさ、そして人間として生きることの矛盾。

それにしても、荒木浩氏というのは非常に面白い人だ。森達也氏が述べているとおり、信者としての確信を強く持ちながらも、広報副部長として世間に向き合いながらどこか葛藤を続けている。そして本書を読めば見えてくる、世間側の思考停止。オウム真理教を知ろうとして見えてきたのは、日本社会が抱える大きな闇だったというのは、ありがちではあるが、それでもやはり衝撃的で、かなり落ち込む。しかし、森達也氏はどこまでも前向きだ。あとがきにあるとおり、彼は人間の善意を何とか信じようとしている。

「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」

結局は外したけれど「A2」のサブタイトル候補だったこのフレーズは「A」の撮影中の頃からずっと意識の隅で、基調低音のように響いていた。こうなれば持久戦だ。甘いと嘲笑され、楽観主義と批判されるが、でも僕は今も、世界の復元力を信じている。たぶん、その確信があるからこそ、僕は作品を作り続けられるのだと思う。

僕にはまだその確信はない。

A

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コロナ療養記(Day -1~Day 9)

コロナウイルスにとうとう捕まってしまった。それも夫婦そろって。覚えているうちに経緯を残しておく。

Day -2

妻が風邪の症状で早退。普段なら風邪だろうと寝かせておけばいいのだが、念のためにと抗原検査キットを買って試してみると、本当に薄くだが陽性の部分にラインが。ほかの人に迷惑になるかもしれないということで発熱外来へ連れて行った。この段階でどうも症状が重そうだったので、とうとう・・・という気はしていた。行ったのは近所にできていた内科。コロナ以降に開院したようで発熱患者向けにしっかりと隔離されていた。院内も新しく、予約もウェブから可能になっていて便利だった。ただし、最初から「マイナンバーカードは?」と言われて驚いた。知らないうちにもうマイナンバーカードがデフォルトになっていたようだ。症状が出てから間もないため、抗原検査には少し早いようなので、PCRをすすめられた。追加1000円でインフルエンザ検査もつけることができたので、せっかくなのでとフルパッケージに。インフルは陰性だったが、PCRの結果は翌日まだ分からないということで、薬だけもらって帰った。薬は解熱剤のロキソプロフェン、炎症を抑えるトラネキサム酸、それからうがい薬。のど飴も提案されたそうだが、龍角散がありますと断ったとか。これを後で少し後悔していた。

Day -1

妻にPCR陽性の連絡。電話口で妻は「やっぱりそうですよね」と笑っていた。思えばまだその余裕があった。この日は看病。買い出しに出かけ、料理をして、夕方頃まではゆったり休んでいた。しかし夕方頃、ほんの少しだけだが喉に違和感があるような気がして、もらってしまった可能性を考え、数日後納品予定だったファイルの作業に入った。結局完了まで深夜3時頃までかかったが、これが正解だった。

Day 0

午前中に37度の発熱。考えてみれば、妻が発症する前から一緒の寝室で寝ていたわけだから、もらっていないはずがなかった。今年初め頃は妻が仕事先でインフルをもらってきて、帰宅直後から隔離していて、そのときはもらうことなく妻が完治したので、今回もちゃんと隔離すればよいだろうと思い込んでいた。そもそもまったく状況が違ったのに。

37度とはいえまだ体は全然動くし、では今のうちにと、近所の薬局でイソジン龍角散、解熱剤、ゼリー系食料などを購入。ダブルマスクを着用し、いつも以上に念入りに手指の消毒。

この後、あまりはっきりと覚えていないが、この日の段階で38度くらいまでいったと思う。ただし喉の違和感はなくなっていた。

Day 1

発症日翌日。解熱剤のおかげで熱も下がり、その他には主に違和感もなく、昼には少しゲームすらした。食事はご飯、サラダ、鰯の缶詰。

Day 2

朝から喉の痛みが始まった。実は喉の痛みがないと、ひょっとするとそれが後遺症という名前に化けるのではないかと心配していたので、少し安心した。熱もここから38度以上が基本となる。喉は痛いのだが、このときはまだ食べるくらいは普通にできていたので、たしかレトルトカレーを食べた。

Day 3

終日、喉の痛みと高熱にうなされる。喉の痛みが正直想像以上でつらい。食欲はそれほど落ちていないのもつらく、食べれないのにおなかがすいておなかが痛くなった。食事はおかゆ、豆腐、きゅうりなど。

Day 4

午前起床時も前日とあまり変わらず。ただ解熱剤が効いているのか、それとも快方に向かっているのか、熱も37度前後に落ち着いていた。午後には喉の痛みが少し治まったような気がして、寝てばかりでは腰がいたくなるので、自宅オフィスでパソコンみたり、ゲームしたり。食事はおかゆなど。この日は総合風邪薬のルルを2回飲んだ。

Day 5

午前中は喉の状況は前日と変わらず。まだ少しかかるようだ。熱は解熱剤なしで平熱。午後はさらに喉の痛みが治まってきて、さほど苦労なく食事を食べられるようになったが、ここにきて味覚・嗅覚障害が発生。たぶん前日からだった(あるいは発症直後からだったかもしれない)ような気もするが、この日には明らかに酷くなった。塩味がまったくわからず、納豆が無臭になり、たまにふわっと謎の異臭を感じる。喉の奥からくる異臭で、何か腐ったようなにおい。ひょっとすると喉にできていた炎症部分が剥がれた、または老朽化のような状態になり匂いを放っているのだろうか。納豆ご飯は「ふわっとした何か」にしか感じることができなかったが、その納豆の匂いなのか。不思議なのが、塩水で鼻うがいすると、鼻の方で塩味を感じる。終日薬は飲まず。

Day 6

喉の痛みはおおまか取れたが、若干の違和感は残っている。味覚障害は昨日と同じか、若干ながら改善。嗅覚障害は昨日から若干改善。今日分かったのは胡麻油の匂いはわかって、はじめて心地のよい香り(香ばしい香り)を感じることができた。

Day 7以降

基本的には「治った」といえるかもしれないが、今現在(Day 9)も味覚障害と嗅覚障害が続いている。また、倦怠感とはまた違うが、全体的になんだか疲れている。食欲も少し落ちたままの状態が続いている。一般的な病み上がりというやつかもしれない。普通の風邪なら、ある日に朝起きたら気分がよくなっていて、「治った!」とすぐに日常生活に戻れるのだが、今回はなんだかそれがない。治る直前くらいの体調がずっとだらだら続いているような。味覚障害と嗅覚障害についても1~2習慣で治るケースがほとんどという話もあるので、もう少し様子を見てみようと思う。

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』のダグラス・ホフスタッターが語る人工知能の脅威とChatGPT

ゲーデルエッシャー、バッハ』の著者ダグラス・ホフスタッターの最近のインタビュー映像がSNSで流れていた。正直まだご存命だと知らなかった。コンピュータサイエンスを学ぶ生徒としてホフスタッターのGEBは知っていて、大学院に戻ろうと考えていた頃にAmazonから原著を購入していた。なんどかページをめくろうとするもの、あまりの存在感、重厚感、ボリュームに圧倒され、結局積まれたままに。先日古本屋で日本語訳を見かけて、訳書なら今からでも挑戦できるかもと思っていたところ。

短いインタビューだが、注目はChatGPTをはじめとする最近のAIの進化の速度に対する驚きと、”Soon”訪れるであろう人類が主役の座を明け渡す日を恐れていると語る後半。こうした変化が何百年もかけてゆっくり起こるなら受け入れられるだろうが、それが数年で起きてしまう可能性があるということ、それが信じられない速度で襲ってくる津波のようで恐ろしいと。ゴキブリが人類を見てまったく理解できないのと同じように、いずれ到来するスーパーインテリジェンスを我々が理解することは到底できない。「それは面白い例えですね」と笑う質問者に「面白いんじゃない。恐ろしいことだ。実質一日中このことを考えているし、酷く落ち込んでいる」と真顔で返していたのが印象的だった。

一方方向だけのトランスフォーマーの仕組みから、これだけの「思考」が生まれるとは思わなかったとも驚いていた。自分がナイーブだったと。人間の思考は思っていたほど複雑でも、ミステリアスでもないのかもしれないと。人間は覚えも悪いし、すぐ混乱するし、矛盾することだって日常茶飯事だ。これは人間の思考が「その程度」である証拠かもしれないと。

今のAIの進化を他の事象を例えると何だろうかという質問に「火災」と即答していた。ではどうすればよいのでしょうかという質問には「わからない。もう山火事になっているような気がする。もう後戻りできないのでは」と。

 

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マストドンとか人工知能とか世界の滅亡とか最近のこと

しばらくほったらかしにしてしまったはてな日記。

今年に入ってからマストドンを始め、そこである程度発散できてしまうことで、すっかりブログを忘れてしまっていた。別に誰が読んでいるわけではないからいいんだけども、でもこんな自分でもわりといろいろと考えることはあって、それが日に日に流れて言ってしまっているのはなんだか残念ではある。まあ、そんなことはマストドンで発散していた。

しかし、chatGPTに「出会って」からのここ数か月、忘れかけていたコンピューターサイエンス脳が活性化されたのか、単にAIの進化が恐ろしいほど速いからなのか、最近はAI・人工知能と未来の社会のことをよく考えている。

最初はchatGPTなんか触りたくなかった。最初に使い始めたのは妻で、それを横目にあんまり触るまいと、なぜか自制していた記憶がある。とはいえ、やはり好奇心には勝てないのか、何がきっかけだったのかわからないが、なんとなく使ってみたら、とにかく衝撃的だった。すぐに自分の仕事がなくなるかもしれないという恐怖心に襲われた。

思えば、機械翻訳については懐疑的だった。ここ数年どころか、十数年は人間翻訳に勝てるはずがないと、傲慢にも安心しきっていた。いままでの機械翻訳とchatGPTは何が違うのか。翻訳の性能についてはそれほど大きな改善はないように思う(そもそもchatGPTは翻訳に最適化された技術ではない)。なぜ仕事の心配が頭に浮かんだのか、恐らくコンテキストをしっかりと理解しているように見えたから。さらに言うと、自分が「専門」にしているコンピューター技術の背景知識を自分以上に持っているように見えたから。思えば、社会に出てから今までの仕事を振り返ると、自分は2つのスキルをベースに食べてきた。英語とコンピューター技術。底に出てきたのが生成AI。トランスフォーマーディープラーニング、RLHF。数か月前までまったく知らなかった技術や仕組みによって、テキストにすこぶる強い、それもかなり広範な知識を備えているように見えるAIが登場した。翻訳に最適化されていないとはいえ、今の段階でも言語能力は相当高い(翻訳に最適化された「transGPT」が生まれる頃には手も足も出ないかもしれない)だけでなく、自分よりも専門知識が高い。聞き慣れない英語表現や業界用語もchatGPTに質問すると、かなり正確に教えてくれる。自分が誇っていた専門知識、スキルが、一夜にしてどこかに消えてしまったかのように。

それからchatGPTと最近のAIのことを学び始め、いわゆるアライメント問題、安全性の問題、AGI(汎用人工知能)、ASI(超絶人工知能)到来の可能性、そして人類滅亡レベルの脅威を知った。

思えば、20代の頃は、日本の企業で働きながら、いつかアメリカの大学院に進学して人工知能の専門分野に進もうと計画していた時期があった。カーツワイルの本を読み、ジェフホーキンスの本を読み、AIのニュースを追って、いつかは学問の世界へ、と夢見ていた。結局その後も、いわゆる人生ってやつが起こって、結婚して、転職して、無職になって、世界旅行に行って、フリーで独立して、そして今に至る。

振り返ってみれば、コンピューターサイエンティストとしては落第したわけで、でもコンピューターや人工知能への探究心はまだ若干ながら残っていて、でもそんな中、今回の生成AIの登場で、自分の中のコンピューターサイエンティストの火がまた灯ったのだろう。

別にそんなロマンティックなものでもない。下手すれば人類滅亡レベルの危機だ。その前にも恐らく世の中が大きく混乱するだろう。すでにAIの「Arms race」は始まってしまっており、走り出した世界は止まるようにみえない。

マストドンでもたまにAIの話をしてみるのだが、これがまた誰も反応してくれない。別に反応が欲しいわけではないんだけど、なんだか一人で場違いな騒ぎ方をしているようで、みっともなく思えてきた(恐らく世界のAI研究者やテクノロジー信者が似たような気持ちを抱いていると思う)。でもこれだけ毎日心配して、考えて、また心配しているのだから、自分の考えや、見たり読んだりしたことをどこかに残しておかないとと思えて、そこで思い出したのがこの日記サイトだった。ここなら誰かに読まれていることをあまり気にせずに残せるだろう。そもそも、このサイトは、自分がもしいなくなった場合でも、妻に思い出してもらえるような文章を残しておこうという意図がほとんどだった。妻にも毎日のようにAIの話をしているが、残念ながら反応は悪い。そのうち世の中の理解が進めば(あるいは彼女が大ファンのBTSのメンバーが話し始めれば?)気になってくるだろうし、まだ自分が先にいなくなってしまう可能性の方が高いので、やはりここに残しておくべきなんだろう。

今日は2023年の6月27日。来年はどんな世界になっているのか、まったく想像がつかない。今までこんな不透明な時代があったのだろうか。速度があまりに速い。毎週、毎日レベルで何か新しい技術・発表が出ているような気がする。この過程であまりに多くのことが起こってしまえば、自分という存在の中でも、その過程を把握しておくのが難しいだろう。やはり、できるだけここに残していければと思う。

『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー(ハヤカワepi文庫)

ディストピア小説の源流と言われる本作。僕がSFに慣れていないだけなのかもしれないが、かなりの衝撃だった。

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ここで描かれているディストピアユートピアとは何と恐ろしい場所なのか。そして、なぜだか現代社会の姿が透かし絵のように浮かび上がってくる。ぞっとする程度ではない。ただただ恐ろしい。

人類皆平等と掲げながらも、必要悪として公然と認められている現代の階級社会。階級という言葉は不適切かもしれない。しかし、根底にある思想は階級そのもの。生まれた場所、地域、言語、家庭から、各個人の性格、適正、能力、容姿など。そういった属性によって決まる階級。貧困化が進む日本だって、今現在はまだ比較的快適な生活を送ることができているが、その快適さ、つまり手頃な価格で手に入る食べ物、まさに私たちの生活様式そのものといえるのかもしれないが、こういったものはすべてほかの人の犠牲によってなりたっている。そして、それを「仕方がないもの」として暗に受け入れている私たち。「あの人たちはあの人たちなりに楽しく暮らしているんだ」と。

幸福というのはそもそも何なのだろうか。快適な生活。これを目指していたのが戦後の日本だったと思う。みなが幸せに暮らせる世界とは何だろうか。この年にもなって、思えば真剣に考えたことが無かったのかもしれない。

幸福と自由。快適さと真実。こういう二項対立もなんだか新鮮だった。これを安易に、現代の分断に当てはめるのは危険だろう。そもそも、左派の多くは幸福の意味をそこまで考えていないだろうし、右派だって本当に自由を求めているのではなく、「自分の快適さ」だけを気にしているケースも多い。自分としても、最終的な、あるいは究極的な幸福とはどういう社会なのか。これが自分の中でしっかりとイメージできていない。

シェイクスピアを至るところで参照してしまう野人の姿も、あれはあれで哀しい。これも一種の「条件づけ」だろうし、私たちの思考や意思というのは、どれだけオリジナルで「自由」なものなのだろうか。ひょっとすると、このディストピアは我々人類には悪くない未来なのかもしれない、とすら思えてくる。

そしてあの最後。野人の道も険しかった。それに、あの文明の厚かましさ!結局すべてはエンターテインメントとして消費されてしまうのか。訳者によるとユーモア満載の作品なのだろうが(彼に言わせるとバーナード君のコミュ障ぶりも「噴き出してしまう」レベルだそうだ。本の読み方もいろいろだ)、本書は圧倒的に暗い。恐ろしい。これがディストピア小説というものなのだろう。

『石垣りん詩集』岩波文庫

詩集というものを、生まれて初めて読んだ。

詩というものは自分には難しいと思っていた。常人には想像すらできない感性。常人には理解できない表現方法。常人には想像できないほど巧みな言葉づかい。

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考えてみれば、難しそうな芸術だって、プロしかわからない領域があったとしても、一般庶民に楽しめないというわけではない。むしろ、芸術の本来の姿は、毎日の暮らしで精一杯の庶民にも、この世の中にはそれだけではない、もっと豊かで素晴らしい世界があるということを伝えるところにあるのだと思う。

石垣りんの詩には驚くほど自然に入り込むことができた。特に前半のものなど、今まで思っていた詩ではなく、あの戦争の後の荒廃した日本の姿であったり、貧しいながらもなんとか暮らしている庶民の姿であったり、自らを犠牲にして家族を養おうとする女性の姿だったり、政治に対する静かな怒りであったり、それが普段使いの言葉で綴られていた。変に構えていたのは何だったんだろうと不思議に思ったほど。

石垣りんが見せる静かな怒り。これは現代にも続いている。行動成長期の建築ラッシュと、「仕方がない」ものとして捨てられる労働者の姿は、まさに今ワールドカップが開催されているカタールの問題にもつづいている。

読みながら、なんだか体がぞわぞわするというか、ああ、これが感動するということなのかと、ロボットみたいなことを思った。そして、一つ一つゆっくりと味わいながら読んだ。詩を読むことの楽しさが少しわかってきた気がする。わずかな時間があれば、ふと本に目を落とし、何度も何度も読み返せる。きっとそのたびに、そのときの状況、家族との関係、仕事との関係、世界での出来事、詩はあらゆることとまじわりあい、新しい姿を見せるのだろう。

人間というのは、生きていると何が起こるのかわからない。まさか詩を純粋に楽しめる日が来るとは。

 

司馬遼太郎『新装版 翔ぶが如く』全10巻

今年の春頃から読み始めていた司馬遼太郎の『翔ぶが如く』全10巻、ついに読了。10冊ともなれば巨大長編ということになるが、Kindleの、しかも合本版だったので、「これを全部読んだのかー!」と目の前に全巻積み上げて、感慨深げに振り返ることができないのが少し残念で。そんな読者の気持ちを静めるためだろうか、Kindleの合本版の表紙には10冊の文庫が積まれている写真があって、ちょっと面白い。

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主役は西郷隆盛大久保利通だと思い読み始めた本作だったが、読んでみるとそういうわけでもなく、全巻通して主役といえる人物はおらず、どちらかというと時代そのものが主役だったと言える。実際に途中は西郷はあまり話に出てこない(鹿児島で半隠居状態)。大久保利通もどこか脇役的だし、川路利良にしろ木戸孝允にしろ、一時的にスポットライトが当たる程度だった。その分、登場人物が多いのなんの。西郷と大久保の2名の存在感はやはり相当な物だったろうが、彼らだけの動きでこの時代は見えないということだろう。

それにしても、結局のところ、西郷隆盛とは何だったのか。この本を読み終えて妻に伝えたら、「結局西郷さんはどんな人だったの?」と聞かれ、回答に困った。司馬遼太郎本人も言っているとおり、特に維新後、西南戦争までの西郷の思考はよくわからない。最後の西南戦争にしても、相当子供じみた喧嘩のふっかけかたで(といっても彼が始めたわけではないが)、かつ、下手くそな戦い方だったようだ。そこには桐野利秋という、またこの時代を象徴する人物の、ある種暴走、ある種彼らしい生き方(「ラストサムライ」という肩書きが似合うのは彼だろう)、が影響してくるのだが、西郷はあまりにも無責任に見えるし、ただただ、薩摩の士族が抱える巨大な不満をどう収めるか、これに終始していたように見える。征韓論しかり、最後の西南戦争しかり。

感情的には西郷派になる雰囲気も少しは分かった。とはいえ、本当のところは、西郷本人に会わないと彼の「すごさ」はわからないのだろうが、あれだけの人望を集めたのだから、何か妙な、神がかった人格があったのだろう。一方で大久保利通については、感情的にという点では、特に西南戦争の発端となった西郷暗殺の動き(の可能性)にも一枚かんでいたとすると、なおさら冷たく感じる。数年前に鹿児島に旅行に行ったとき、ボランティアのガイドさんと西郷隆盛の話になった。この時代でも(仕事柄もあるだろうが)現地での西郷人気は相当だと感じたが、大久保利通の話をふったら一気に熱が冷め「あの人は冷たい」とぴしゃり。その一方で、冷静に新しい政府・国作りをしようとしたとき、司馬遼太郎曰く将来の青写真を持ち合わせていなかった西郷隆盛ではなく、大久保利通が政権を握ったというのは自然な成り行きだろう(西郷本人もそう思っていたに違いないが)。

本作を読んで新たに魅力を感じたのが木戸孝允。なんだか粘着的な性格だったようで、西郷のような歴史上稀に見る人格者でも、大久保利通のような最強の実務者でもない、時代を動かすというよりかは批評家的な、鬱屈とした精神を持ち合わせた暗い性格の人物として描写されていたが、思想的には相当時代を先駆けていたと思うし、彼が病魔に倒れなかったら歴史はどうなっていただろうと想像せずにはいられない(大久保のように暗殺されていた可能性も高そうだが)。彼が主役の歴史小説はないのかと調べてはみたが、意外と少ないのに驚いた。大久保もそうだが、やはりエンターテインメントとしては面白みに欠けるのかもしれない。

司馬遼太郎の語りも相変わらず楽しかった。今回も余談は多めだが、なんだか歴史に詳しいおじいさんの話を聞いているような、あの相変わらずの優しい雰囲気。司馬さんの本は寝る前に布団の中で読むのがやはり最高。うとうとしながら、でももっと話を聞きたい。そんな気持ちにさせてくれる。

さて、次は何を読むか。司馬遼太郎作品はかなり積読しているから選ぶのが大変だけど、しばらく司馬作品はお休みかな。来年に入ったら最近よく目にする『峠』を読もうかと思う。