ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー(ハヤカワepi文庫)

ディストピア小説の源流と言われる本作。僕がSFに慣れていないだけなのかもしれないが、かなりの衝撃だった。

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ここで描かれているディストピアユートピアとは何と恐ろしい場所なのか。そして、なぜだか現代社会の姿が透かし絵のように浮かび上がってくる。ぞっとする程度ではない。ただただ恐ろしい。

人類皆平等と掲げながらも、必要悪として公然と認められている現代の階級社会。階級という言葉は不適切かもしれない。しかし、根底にある思想は階級そのもの。生まれた場所、地域、言語、家庭から、各個人の性格、適正、能力、容姿など。そういった属性によって決まる階級。貧困化が進む日本だって、今現在はまだ比較的快適な生活を送ることができているが、その快適さ、つまり手頃な価格で手に入る食べ物、まさに私たちの生活様式そのものといえるのかもしれないが、こういったものはすべてほかの人の犠牲によってなりたっている。そして、それを「仕方がないもの」として暗に受け入れている私たち。「あの人たちはあの人たちなりに楽しく暮らしているんだ」と。

幸福というのはそもそも何なのだろうか。快適な生活。これを目指していたのが戦後の日本だったと思う。みなが幸せに暮らせる世界とは何だろうか。この年にもなって、思えば真剣に考えたことが無かったのかもしれない。

幸福と自由。快適さと真実。こういう二項対立もなんだか新鮮だった。これを安易に、現代の分断に当てはめるのは危険だろう。そもそも、左派の多くは幸福の意味をそこまで考えていないだろうし、右派だって本当に自由を求めているのではなく、「自分の快適さ」だけを気にしているケースも多い。自分としても、最終的な、あるいは究極的な幸福とはどういう社会なのか。これが自分の中でしっかりとイメージできていない。

シェイクスピアを至るところで参照してしまう野人の姿も、あれはあれで哀しい。これも一種の「条件づけ」だろうし、私たちの思考や意思というのは、どれだけオリジナルで「自由」なものなのだろうか。ひょっとすると、このディストピアは我々人類には悪くない未来なのかもしれない、とすら思えてくる。

そしてあの最後。野人の道も険しかった。それに、あの文明の厚かましさ!結局すべてはエンターテインメントとして消費されてしまうのか。訳者によるとユーモア満載の作品なのだろうが(彼に言わせるとバーナード君のコミュ障ぶりも「噴き出してしまう」レベルだそうだ。本の読み方もいろいろだ)、本書は圧倒的に暗い。恐ろしい。これがディストピア小説というものなのだろう。

『石垣りん詩集』岩波文庫

詩集というものを、生まれて初めて読んだ。

詩というものは自分には難しいと思っていた。常人には想像すらできない感性。常人には理解できない表現方法。常人には想像できないほど巧みな言葉づかい。

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考えてみれば、難しそうな芸術だって、プロしかわからない領域があったとしても、一般庶民に楽しめないというわけではない。むしろ、芸術の本来の姿は、毎日の暮らしで精一杯の庶民にも、この世の中にはそれだけではない、もっと豊かで素晴らしい世界があるということを伝えるところにあるのだと思う。

石垣りんの詩には驚くほど自然に入り込むことができた。特に前半のものなど、今まで思っていた詩ではなく、あの戦争の後の荒廃した日本の姿であったり、貧しいながらもなんとか暮らしている庶民の姿であったり、自らを犠牲にして家族を養おうとする女性の姿だったり、政治に対する静かな怒りであったり、それが普段使いの言葉で綴られていた。変に構えていたのは何だったんだろうと不思議に思ったほど。

石垣りんが見せる静かな怒り。これは現代にも続いている。行動成長期の建築ラッシュと、「仕方がない」ものとして捨てられる労働者の姿は、まさに今ワールドカップが開催されているカタールの問題にもつづいている。

読みながら、なんだか体がぞわぞわするというか、ああ、これが感動するということなのかと、ロボットみたいなことを思った。そして、一つ一つゆっくりと味わいながら読んだ。詩を読むことの楽しさが少しわかってきた気がする。わずかな時間があれば、ふと本に目を落とし、何度も何度も読み返せる。きっとそのたびに、そのときの状況、家族との関係、仕事との関係、世界での出来事、詩はあらゆることとまじわりあい、新しい姿を見せるのだろう。

人間というのは、生きていると何が起こるのかわからない。まさか詩を純粋に楽しめる日が来るとは。

 

司馬遼太郎『新装版 翔ぶが如く』全10巻

今年の春頃から読み始めていた司馬遼太郎の『翔ぶが如く』全10巻、ついに読了。10冊ともなれば巨大長編ということになるが、Kindleの、しかも合本版だったので、「これを全部読んだのかー!」と目の前に全巻積み上げて、感慨深げに振り返ることができないのが少し残念で。そんな読者の気持ちを静めるためだろうか、Kindleの合本版の表紙には10冊の文庫が積まれている写真があって、ちょっと面白い。

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主役は西郷隆盛大久保利通だと思い読み始めた本作だったが、読んでみるとそういうわけでもなく、全巻通して主役といえる人物はおらず、どちらかというと時代そのものが主役だったと言える。実際に途中は西郷はあまり話に出てこない(鹿児島で半隠居状態)。大久保利通もどこか脇役的だし、川路利良にしろ木戸孝允にしろ、一時的にスポットライトが当たる程度だった。その分、登場人物が多いのなんの。西郷と大久保の2名の存在感はやはり相当な物だったろうが、彼らだけの動きでこの時代は見えないということだろう。

それにしても、結局のところ、西郷隆盛とは何だったのか。この本を読み終えて妻に伝えたら、「結局西郷さんはどんな人だったの?」と聞かれ、回答に困った。司馬遼太郎本人も言っているとおり、特に維新後、西南戦争までの西郷の思考はよくわからない。最後の西南戦争にしても、相当子供じみた喧嘩のふっかけかたで(といっても彼が始めたわけではないが)、かつ、下手くそな戦い方だったようだ。そこには桐野利秋という、またこの時代を象徴する人物の、ある種暴走、ある種彼らしい生き方(「ラストサムライ」という肩書きが似合うのは彼だろう)、が影響してくるのだが、西郷はあまりにも無責任に見えるし、ただただ、薩摩の士族が抱える巨大な不満をどう収めるか、これに終始していたように見える。征韓論しかり、最後の西南戦争しかり。

感情的には西郷派になる雰囲気も少しは分かった。とはいえ、本当のところは、西郷本人に会わないと彼の「すごさ」はわからないのだろうが、あれだけの人望を集めたのだから、何か妙な、神がかった人格があったのだろう。一方で大久保利通については、感情的にという点では、特に西南戦争の発端となった西郷暗殺の動き(の可能性)にも一枚かんでいたとすると、なおさら冷たく感じる。数年前に鹿児島に旅行に行ったとき、ボランティアのガイドさんと西郷隆盛の話になった。この時代でも(仕事柄もあるだろうが)現地での西郷人気は相当だと感じたが、大久保利通の話をふったら一気に熱が冷め「あの人は冷たい」とぴしゃり。その一方で、冷静に新しい政府・国作りをしようとしたとき、司馬遼太郎曰く将来の青写真を持ち合わせていなかった西郷隆盛ではなく、大久保利通が政権を握ったというのは自然な成り行きだろう(西郷本人もそう思っていたに違いないが)。

本作を読んで新たに魅力を感じたのが木戸孝允。なんだか粘着的な性格だったようで、西郷のような歴史上稀に見る人格者でも、大久保利通のような最強の実務者でもない、時代を動かすというよりかは批評家的な、鬱屈とした精神を持ち合わせた暗い性格の人物として描写されていたが、思想的には相当時代を先駆けていたと思うし、彼が病魔に倒れなかったら歴史はどうなっていただろうと想像せずにはいられない(大久保のように暗殺されていた可能性も高そうだが)。彼が主役の歴史小説はないのかと調べてはみたが、意外と少ないのに驚いた。大久保もそうだが、やはりエンターテインメントとしては面白みに欠けるのかもしれない。

司馬遼太郎の語りも相変わらず楽しかった。今回も余談は多めだが、なんだか歴史に詳しいおじいさんの話を聞いているような、あの相変わらずの優しい雰囲気。司馬さんの本は寝る前に布団の中で読むのがやはり最高。うとうとしながら、でももっと話を聞きたい。そんな気持ちにさせてくれる。

さて、次は何を読むか。司馬遼太郎作品はかなり積読しているから選ぶのが大変だけど、しばらく司馬作品はお休みかな。来年に入ったら最近よく目にする『峠』を読もうかと思う。

『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』ヤニス・バルファキス

資本主義ではもう駄目だとして、何か「別のやり方」が必要だとして、ではどのような社会を想像すればよいのか。「想像」というのは、今の段階では、まったく指針となる未来像がないから。ざっくりとだが、資本主義と共産主義という大枠でしか世界を考えることができない私たち。しっかりと飼い慣らされてしまっている私たち。

そんなことを考えていたときに、ふと思った。サイエンスフィクションがとっかかりになるのではないか。ちょうどその頃に読んでいたのがサイエンスフィクションの名作、ハインラインの『夏への扉』で、その影響も大きい。それ以来、少しずつSFを読んでみようと思いながらも、結局あまり手を付けずに半年以上経っていた。そんな中、旅先の本屋さんで見かけたのがこの本。

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『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』。なんともぶっ飛んだタイトルだ。原書のタイトルはもっとおとなしくて『Another Now: Dispatches from an Alternative Present』。もう一つの「現在」、パラレルワールドからの知らせといったところか。想定読者を考えれば、日本語タイトルはいい線を言っていると思う。

それにしても不思議な本だ。サイエンスフィクション+経済学書という形なのだが、本屋に並べるとやはりSFコーナーになるのだろうか。経済学のコーナーのほうがよりしっくり来る気もする。内容はSFのように読みやすく、それでいて現実社会のことも学べる。SFの世界を堪能しながら現在の社会・経済の問題点を暴き、ある一つの「別のやり方」を提示する。途中はサイエンスフィクション色が薄れてしまったが、最後にはしっかりとSFしてくれてて、サイエンスフィクションとしてもしっかりと堪能できた。

パラレルワールドという形で提示される「別のやり方」。著者はこの新しい社会をどこまで信じているのか。部分的にはいいアイデアも多いし、今の自分にはかなりの理想郷にも見える。しかし、おそらく著者本人もあくまで一例として出したのだろうと思う。そもそも本書内でも完璧な社会としては描かれていない。読者も交えてこれから想像していこう、そういうことなんだろう。

本書では2008年を大きな転換点として、別の世界に分岐したことになっている。思えば、たしかに大きく流れが変わりうる時代だったのかもしれない。その後のオキュパイ運動などもニュースでは見てはいたが、どこか別の世界の話だった。ただ、個人的には、2011年の3月11日。あれは大きな転換点となる気はした。おそらくほとんどの日本人が多少は心に抱いたと思う。しかし、日本は、日本人は何も変わらなかったし、むしろ社会は悪い方向へ一歩一歩進んでいる。

そんな自分にはアイリスの言葉が心に響いた。

ものごとが改善する前には、いったん悪化しなければならないこともある。

ああ、本当にそうだと信じたい。私たちの社会には、徐々によくなるか、あるいはある程度まで悪化してから革命的によくなるか、この2つの方法があるとする。人類の歴史からすると、私たちは後者のやり方が得意なのかもしれない。そうであれば、ひょっとすると、まだこの世界も捨てたものではないのかもしれない。僕個人にはアイリスのような情熱はない。でもそのような指導者がいたらどうだろう。もし希望が見えさえすれば。確かな未来像が想像できさえすれば。未来はまだわからない。

 

『愚か者同盟』ジョン・ケネディ・トゥール

ピュリツァー賞受賞の爆笑(?)労働コメディ『愚か者同盟』。社会批判も散りばめつつ、あくまでブラックコメディ。しかし最後には、これはロマンス小説だったのか、青春小説だったのかと錯覚してしまう不思議な物語。

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英語圏では必読書によく挙げられ、いつか読みたいと思っていたのだが、ながらく訳書がでなかった。コメディ要素が強いこともあり、翻訳が難しい(日本語話者には受けが悪い)ということもあったのだろう。原書も一度トライしたのだが、少し癖のある書き出しだったと記憶していて(あるいは単なる英語力不足)、そうそうとギブアップしていた。

そしてなぜか今、日本語訳が発売。Twitterで見かけたときには結構驚いたのだった。読んでみれば、今こそ読まれるべきだと感じてしまう。このタイミングでの訳書もきっとフォルトゥナ(運命)なのだろう。

主人公はイグネイシャスという名のアラサー男性。ありとあらゆる意味でひねくれていて、自己中。家族に迷惑をかけ、近所でも厄介者の引きこもり。世の中を冷笑し、あくまで自分は天才だと信じるが、社会的にはただの(それも一級品の)変人。そんな彼が、母親の自動車事故をきっかけに労働の社会に放り出されるという物語。イグネイシャスはいやいやながらも、俺様のおでましで〜い、と意気揚々と労働の世界へと歩き出す。周囲はそんな彼に振り回されるのだが、彼から放たれる「我」というオーラが不思議な風を起こし、それが竜巻のような渦を生み出す。登場人物が吸い込まれるように、最後にはまさに大団円へとつながっていく。

こんな不思議な物語をどう終えるのだろうと、一読者として、最後の数十ページは心配でならなかった。ひょっとすると悲劇的な最期を迎えるのではと恐れていたのだが、さすがはさすが。結末が見事!これほど満足できるエンディングを味わえた小説はここ数年なかったように思う。まさに、青春小説だったのか?と錯覚してしまうほど、希望と可能性を感じる素晴らしいエンディングであっぱれだった。

イグネイシャスという存在が大きすぎて、労働の馬鹿馬鹿しさであったり、そのへんが少し薄れてしまっているのが今からすると残念ではある。それにしても、イグネイシャスの態度には見習いたい部分もあり、如何に自分が社会的に不適合なのかを再確認することとなった。

 

『みんなの寅さん from 1969』佐藤利明|「男はつらいよ」2周目完走

コロナ禍に入ってから見始めた「男はつらいよ」シリーズ。すっかりファンになってしまい、先日とうとう2周目を完走。自分のことながら、合計50作もある映画をこの短期間で2周も見てしまうんだから、少しあきれつつも、3周目はいつ始めようかと、まだまだまったく飽きはない。本当に不思議なシリーズである。

思えば1周目は、Wikipediaを見ながら出演者や撮影地、こぼれ話を確認しながら見ていた。さすがファンが多いシリーズだけあって、Wikipediaも相当のボリューム。かなりの作品数にもかかわらず、作品ごとの解説も相当細かい。

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2周目のお供となったのは、佐藤利明氏の『みんなの寅さん from 1969』という鈍器本。

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ラジオ番組が元のようだが、各作品を取り上げたエッセイ集のようなもので、それ以外にも渥美清の生涯についてもまとめられていたり、撮影地や出演者などのデータベースも巻末に収録されていたりと、まさに決定版。この種の本はほかにもあるようで、これから少しずつ拾っていくのが楽しみだが、古書以外で普通に本屋で買えるのは本書くらいじゃないかと思う。コロナ禍に入り在宅時間が増えた今(特に最近は動画配信サービスでも扱いが広がっていることもあり)、自分のようにガチではまってしまった人ならぜひ手元に置いておきたい一冊。

先日「寅さんの何がそんなにいいんだ?」と聞かれて回答に困ったことがあった。自分でもよくわからない。「男はつらいよ」はロードムービーでもあり、ファミリームービーでもあり、また昭和・平成の日本の風景が残されている記録映画でもある。なにより渥美清の語りの素晴らしさが光るコメディ映画でもある。ときに、これは倍賞千恵子の作品じゃないだろうかと思うくらい、さくらの役が輝くところもある。寅さんが帰ってきたときに「お兄ちゃん!」といつも本当にうれしそうに喜ぶ姿。あの関係性というのは、あれだけ続いたシリーズだからこそ生まれてくるものだと思う。2周目では倍賞千恵子の何気ない演技になんど唸ったことか。博役の前田吟の芝居くさい芝居も、これはこれでいい。2周目に入って、これぞ博だと思えてきた。おばちゃんの安定した存在感。3代目まで続いたおいちゃんも、それぞれに個性があって楽しい。満夫が前面に出てきた最後の数作はやはりスピンオフ感が拭えないものの、2周目ともなると、これはこれでいいんじゃないかと思えてきた。

さて、3周目はいつ始めようか。英語には「comfort show」といった表現がある。疲れたとき、落ち込んだとき、どん底のときに正気を保たせてくれる、何度繰り返し見ても笑えたりほっとできる、実家のような存在の作品のこと。個人的には海外ドラマの「フレンズ」や「オフィス」。日本語ならダウンタウンの昔のガキの使いやコントがそういう存在だったのだが、それに最近加わったのがこの「男はつらいよ」シリーズ。安心して繰り返し見ることができる作品が増えたのは単純にうれしいし、心強い。

さあ、3周目はいつ始めようか。

 

『『男はつらいよ』の幸福論』名越 康文

またまた飽きもせず、寅さんネタの本。

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今回は精神科医による著作ということで、若干異色。名場面を振り返りながら、精神科医が車寅次郎やほかの登場人物の深層心理を探る。

寅さんはなぜあそこまで女性に対して及び腰なのか。彼は草食男子の走りだったのか?という話から、マドンナの生き方、無口な父親像、プロポーズを恐れる男性陣、そして故郷と旅という本質的なテーマまで多様。精神科医が・・・というところで少し構えてしまうが、平易な内容で、専門用語もほぼ使われていない。もう少し難しい内容を期待していたのだが、どちらかというと寅さんテーマのエッセイといったところで、これはこれで楽しい。

あれだけ続いたシリーズとはいえ、あくまでコメディ映画。深読みにどれほどの意味があるか疑問ではありつつも、それでもいろいろ広げたい、もっと考えたい、語りたい!というのがファン心理というもの。本書も一ファンとして十分楽しめた。ああ、なるほど・・・と思うところから、それは考えすぎでしょ・・・というところまで、リアル人脈(そもそもそれがほぼないのが問題だが)の中では寅さんの話をつっこんでできる人がいないので、ただただ楽しい時間だった。