ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

フェルナンド・ペソア「新編 不穏の書、断章」

フェルナンド・ペソアの不穏の書。

社会的な「成功」や栄光を諦めた人。いわゆる非リア充。不安を抱えて生きている人にやさしいペソアさん。貿易会社で文書作成する仕事をしながら、空いた時間で創作活動に没頭したペソアさん。弱小フリーランサーの自分も、なんだか親近感が持てる(とはいえ、私は創作活動ではなく、それを消費するだけなのだが)。

私はおそらく、この地上ではいかなる使命も担っていないのだ。

これを解放と捉えられればきっと大丈夫だ。私だってきっと大丈夫だ。

いまの私は、まちがった私で、なるべき私にならなかったのだ。 まとった衣装がまちがっていたのだ。 別人とまちがわれたのに、否定しなかったので、自分を見失ったのだ。 後になって仮面をはずそうとしたが、そのときにはもう顔にはりついていた。

仮面の話はなんだかよく聞いたことのある比喩ではあるが、きっとそれはみんなペソアさんからの借用なんだろう。

私たちには誰でも二つの人生がある。 真の人生は、子どものころ夢見ていたもの。 大人になっても、霧のなかで見つづけているもの。 偽の人生は、他の人びとと共有するもの。 実用生活、役に立つ暮らし。 棺桶のなかで終わる生。

 霧の中か。年を取るとなんだかいろいろと見にくくなる。

可能なもの、正当なもの、近いものを夢見る人のほうが、遠くのものや奇妙なものを夢見て身を滅ぼす人よりも哀れだ、と私は思う。

夢は大きく見ろということか。現実的な夢、立派な夢なんてのは、それは彼の言う夢なんかじゃないんだろう。

私が感じたり考えたりすることの大半は簿記方という仕事のおかげであり、この職から逃れるためにこれらの感情や考えを用いるのだ。

つまらない仕事(ということだと思うが)が創作につながる。現実逃避からのエネルギー。これは大きな救いの言葉にも聞こえた。仕事がつまんなくてもいいじゃないか。それを別のエネルギーに変えることができれば。

私の仕事は意志の結果ではなく、意志の弱さの結果なのだ。

「いや、私はそうではない」と言える人が、さてどのくらいいるか。強い意志がほしかったと願う反面、なかったからこそ、ある程度の平穏が得られた可能性もある。

私はいつでもわけもなく躊躇する。ああ、私は何度探し求めたことか。個人的直線、理想的な直線として、頭の中で、二点を結ぶ最長の道を。私は積極的に生きるのが下手なのだ。誰も失敗しないことを、私だけは失敗する。みんなが生まれながらにすることを、私だけは一生懸命に努力してやるのだ。みんなが願わずに手にするものを、私は手に入れたいと懸命に願ったのだ。

これに至っては、自分のために書かれたのではないかと錯覚してしまう。ああ、なぜ自分はこうなのだと日々落ち込んでいるが、ペソアさんは一緒に悩んでくれるのか。「なぜ俺だけが!」と1人心の中で叫んでいてが、少なくとも俺にはペソアさんがいた。

ときどき──それはいつもほとんど突然なのだが──感覚の真っ只中で、人生の恐ろしい疲労感が私を襲う。それはあまりにも強烈で、それに打ち克つ方法など思いつかないほどだ。自殺したからといって確実に快癒するという保証はないし、たとえ意識がないにしても、死などなにほどのものだろう。この疲労感は、存在することを止めたいという願いではなくて──それならたんなる可能性の問題だが──それよりもおぞましく、遥かに深遠なこと、つまり、かつて存在したということさえも止めてしまいたいという願いであり、それはいかなる方法によっても不可能なことなのだ。

私には自殺願望というのはないが、ときにすべてが嫌になることがある。自分の存在に対する嫌悪感のようなもの。最近は、それはすべて社交不安障害の何かだと思っていたが、かなり近い感覚をペソアさんもお持ちだったようだ。そう、まさに疲労感。そして、まさに「かつて存在したということさえも止めてしまいたいという願い」。

それに、誰かとつきあわなければならないと想像するだけで厭になる。友人とちょっとした夕食の約束があるだけで、名状しがたい不安に駆られる。どんな社会的義務であれ──葬儀に行くとか、会社の問題を誰かと処理するとか、知人や知らない人を駅に迎えに行くとか──、考えただけで一日の思考がすっかり台無しにされてしまう。ときには、もう前の晩からよく眠れない。それが実際にはまるで些細なことだとわかっていても、私の懸念は消えない。こうして、いつも同じことが繰り返され、私はけっして学ぶということを学ばないのだ。

 実はペソアさんは、きっと現代で言う社交不安障害だったんだろう。このあたりは、個人的には「あるある」すぎて、安っぽく聞こえてしまうほどだ。彼はきっと一生付き合いながら生きていったんだろう。ペソアさんに感じる妙な親近感は、やはりここだ。

倦怠とは、疲労だが、それは昨日の疲労とか今日の疲労ではなく、明日の疲労、そして、もし永遠が存在するのなら、永遠の疲労、あるいは、永遠が虚無のことだとすれば、虚無の疲労である。

こうして連続で断章の一部分を並べてみると、「もう十分だ!やめてくれ!」という気もしてくるが、だから断章なんだろう。ペソアはゆっくり読むべし。この部分だけで一晩過ごせそうだ。

なぜ芸術は美しいのか。それが無用だからだ。なぜ人生は醜いのか。それが目的や目標や利害を持つからだ。

私も無用な時間を過ごして生を費やそう。

 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)