ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』

ああ、長かった。読み始めたのが確か去年の12月。3か月かかったことになる。夜寝る前にちびりちびりKindleで読み進めたが、これだけ時間がかかるとやはり、読んでは忘れ、の繰り返し。それでも読み終わってみれば、楽しい本だった。上下巻と大作ではあったが、専門性は高くなく、あくまで一般読者を想定した内容で非常に読みやすい。

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著者は歴史学者のようだが、あとがきには「マクロ歴史学」に焦点を当てた研究もしているとあった。マクロ歴史学とははじめて耳にしたが、まさにこの本がそれに該当するだろう。ミクロ的にはどうしても怪しいところもあったが、全体的な流れから何か知見を得ようとするなら、ある程度は仕方がないのかもしれない。

本書はタイトル通り、ホモサピエンスの歴史を一気にたどった一冊。認知革命によりライバルを一気に突き放した我々サピエンス。虚構の力を使って、ほかの種には不可能だった大規模な集団化を実現した。力をつけるにつれ、サピエンスはほかの種を食い物にして生きてきた。環境を大きく変えたのは何も近代の話だけではなく、サピエンスはその歴史を通して、常に環境を変え、ほかの種を絶滅へと追い込み、繁栄の道を歩んできた。認知革命の後に待っていたのは科学革命。資本主義が世界を席巻する。そして未来に待つのは特異点

全体を通して、どこかで読んだことのある内容が頻繁に出てくる。著者はあくまでミクロレベルの専門家ではないから仕方がないのだが、なんだか寄せ集めのような印象も残る。しかし、やはり一つの物語としてうまくまとまっている。ストーリーテリングの力だろう。専門的な内容ではなく、一般向けが得意な作家なのだろう。

歴史、社会科学の格好の入門書となる可能性もあるのだが、残念ながら参考書籍の紹介があまりに乏しい。原注も、この類の、そしてこのボリュームの本にしては相当少なめな印象。原注には著者の姿勢も見えてくると思っているので、そういう点ではかなりがっかりした。

次の作品の『ホモ・デウス』も積んでいる。歴史学者が未来を語るとどうなるのか、楽しみではある。

『カメラを止めるな!』|生まれ変わったら次は映画人になるぞ

そういえば観ていなかった『カメラを止めるな!』。2017年公開のインディーズ映画。何の前知識もなく見始めた。最初は「失敗か?」と思いきや、後半はとにかく大爆笑の連続。想定していたホラー映画じゃなかった。最高級のエンターテイメント/コメディ映画だった。とにかく笑った。

伏線、と言えるのかもどうかわからないが、最初の30数分のワンカット映画のシーンのモヤモヤがすべてきれいに解決され、回収された。細かく計算された下手さ、遅さ、グダグダ感。頼りない監督。チャラい制作陣。イラッとする俳優陣。それが最後にはすべてが一体となる。

とにかく映画愛に包まれた作品だ。第二の人生があったら、あるいはもし生まれ変わることがあったら、次は映画制作の世界に入りたい。それなりに映画は好きだが、趣味と聞かれてもそう答えるほどでもない。そんな自分ですら、自分のキャリア選択にミスったかと思わせる。最近はハリウッドに限らず、資本という重力中心に回っているかのような映画が多いが、このような映画があるのには希望を感じる。まだまだ映画の可能性はある。そう、俺程度の映画ファンでも、映画について熱く語りたくなる。いい映画だった。

 

コロナワクチンの接種券(3回目)が届いた

コロナワクチンの3回目の接種券が今日届いた。自分の年齢でも、3回目のブースター接種は2回目から6か月後に前倒しされており、自分の場合は昨年の9月だったからほぼ予定通り届いたようだ。

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さて、実は3回目をどうしようか迷っていた。今回の3回目も、何ヶ月か後には抗体が減るはずなので、オミクロンが少し収まり始めている状況を見ると、今すぐ打つよりも、次の波のタイミングを踏まえて少し遅らせるという選択肢もある。とはいえ、いつそんな波が来るのかは誰にもわからないし、遅らせたことでオミクロンをもらってしまっては意味がない。

そして自分は後遺症が非常に怖い。肉親にもコロナ後遺症で苦しんでいる人がいる。昨年の夏のデルタの波の時にコロナにかかり、その後はほぼ仕事もできていないようだ。SNSでもチラホラ似たような体験談を見かける。やはり恐ろしい。

そもそも、今後コロナはどうなるのだろうと、しばらくはあまり見ないようにしていたコロナニュースを少し見てみた。

いつも参考にしているのはこちらのDr. John CampbellのYoutubeチャンネル。コロナ禍に入った直後あたりから、データに基づく信頼性のある情報やアドバイスを提供していることで人気者の専門家。説明資料も紙に印刷したテキストで、それをカメラに映して書き込みながら説明するという、なんともオールドスタイルなチャンネルだ。

www.youtube.com

さて、久しぶりに見たCampbell博士の動画だが、最近の動画を見ると、もうエンデミック近しというのが、欧米の専門家のトップが共有している雰囲気のようだ。時期的にはわからないが、恐らく今年中にはパンデミック前の状態に近づける見込みが高いと、Campbell博士本人も言っている。オミクロンよりも高い感染力を持つ変異株が生まれる可能性はかなり低く、同程度の感染力でオミクロン以上の発病率を持つ変異株の可能性はさらに低い(遺伝子的に不可能ではないかと言っていた)。今後はインフルエンザ、HIV、はしかのような、風土病のグループに入るだろうと。それでも、実際に死者数は増えているじゃねえかという声もあるが、一部の国は死者数の内訳のようなデータを出している。つまり、コロナが直接的な要因で亡くなった数と、コロナ感染中に別の要因で亡くなった数。見極めは死亡診断書の記載によるようだが、それによると、オミクロン株が直接的な原因で亡くなっている数は半数以下のようだ。どれもまだ部分的なデータではあるが、多少は楽観的な材料もあると。風土病と言っても、たちの悪い病気も多い。日本でははしかなんてほぼ聞かないが、世界的には毎年多くの死者数を出している。コロナが風土病化しても、恐らくたちの悪い部類に入るのではないか。Campbell博士は、エンデミック後のコロナで亡くなる人は、高齢の方や基礎疾患を持つ人々など、インフルエンザで亡くなるグループと「かぶる」ので(「人は2度死ぬことはできない」)、全体的な数値としては以前とは大きく増えないだろうとは言っていた。いずれにしても、少しは楽観的な気分で動画を見終わった。

が。しかし。自分個人が三回目の接種をどうするべきかというのは結局わからなかった。当然打つべきだろうだが、何よりもタイミングだ。。さらに、倫理的な罪悪感もある。まだ1回目すら十分に打てる環境にない国も多いなか、(本人が貧しいとはいえ)金持ちの国に暮らす自分に打つ権利はあるのだろうか。

とまあ、まだはっきりは決まっていないが、とりあえず少し先のスケジュールで予約だけは取っておいた。妻と一緒に接種できる一番早いタイミングが今月末なので、多少の様子見をする猶予がありながらも、夫婦で一緒に防御力を高められる最速のタイミングである。今回はモデルナになる。どうせその予定だったが、やはりファイザーは予約が全く取れなかった。どうせ副反応が出るのだろうから、ファイザーもモデルナも変わらない。であれば、効果が高そうな方がよいだろう。

とりあえずあと一ヶ月。もう少しはおとなしく引きこもり、本を読み、仕事をし、ゲームしながら過ごそうと思う。

ファン・ジョンウン『ディディの傘』|もし自分にも小説を書けたとしたら

韓国の小説家ファン・ジョンウンによる短編集。「d」「何も言う必要がない」の2作品収録。

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「d」

とにかく悲しい話。時代背景はセウォウル号の事故が起きた頃。あの頃の韓国社会というのはなんとも表現できない暗い時代だった。若い命が不条理な形で多数奪われ、国全体が大きな失意に包まれた。その後、その喪失感は大きな怒りと変わり、キャンドル革命へと続いているわけだが、この作品ではそのキャンドル革命直損頃までの雰囲気が描かれている。おそらく、韓国社会はいまだにあのセウォウル号の事故をちゃんとした形で整理できていない。キャンドル革命によって、その機会を失ってしまったような印象もある。社会全体が「なぜこんなことが」という漠然とした疑問と怒りを抱えたまま過ごしていたと思う。

この作品の中で少し不思議な話が出てくる。教室の中に落ちる雷。なぜか温かく感じるモノ。少しファンタジックな雰囲気は、韓国社会がなんとなく抱えていた、理解できない、納得できない世の中の不条理のようなもの、それを暗示しているのだろうか。

しかしだ。人々は何とかして前へ進まなければならない。かすかな、絆とまで呼べない弱いつながりでも、そこから少し光が見えることがある。それにすがるでもなく、ただ生きていく。

「何も言う必要がない」

ある同性カップルの物語。読みながら「彼」という言葉の使い方に唸っていたが、そのこだわりについても訳者あとがきにも説明があった。いや、見事。本を読むことは好きなのだが、自分には物語を書く能力はないと自覚している。それでも、死ぬまでには何か形にするべきではないかと思うことがたまにある。もし、本当に何か物語にすることができて、それが非常に高いレベルでできたとしたら、こんな小説になるのではないかと思った。少し輪郭がぼんやりとした物語。ときにはエッセイのようにも読める文章。またブックガイドとしての役割もある。そして紹介されている本を見ると、知っている、読んだことがある、また読もうとしていた本も多く、なんだか本当に自分が書いててもおかしくない感覚だ(当然文章は数千倍も酷いものになるだろうが)。これはまさに、読書の醍醐味。

先日読んだアナーキストの言葉を借りれば、本書は少し「ズレた」ラブストーリーとも言える。社会的少数者の生きにくさ。キャンドル革命という大きな流れと、そこでも取り残された人々。革命とはいったい何なのだろうか。それは派手な運動の中にはなく、日々の暮らしにこそあるのではないか。この物語でもそう感じた。一方で、現実の世界では何も変わっていないのかと絶望も感じるが、しかし人々のつながりはわずかだがある。そこにわずかながらも希望があるのではないか。それは「d」にも通じる共通のテーマなのだろう。

はじめて読む作家だが、もうすっかり虜になってしまった。自分の古い記憶にも残る雷の思い出。共感できるブックガイド。同世代の作家でこれほどしっくりくるのは、おそらくはじめて。この本に出会えたのがとてもうれしい。

今日はいい日だった。

 

森元斎『もう革命しかないもんね』|革命後の世界を実践しようぜ

「もう革命しかないのか」。心の中でそうつぶやくことが近年増えてきた。傍若無人に振る舞う上層の1パーセントを見たとき。残りの99パーセントの我々が、みっともない内輪のいざこざを起こして分断を深めている姿を見たとき。意味もわからずそうつぶやく。

自分でもそれがどのような革命なのかわからない。革命といえば暴力的なイメージもあるが、そんな暴力革命を望んでいるわけではない。暴力が伴わない革命があるはずだ。そう思いながらも、そんなことが可能なのか、あったとしてもそれが何を意味するのか想像もできなかった。

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この本のタイトル『もう革命しかないもんね』を見かけたとき、軽く衝撃が走った。そう感じていたのは自分だけではないのかもしれない。それも、自分のような疑問文ではなく、やさしくではあるが、断言している。その本屋でも、「アナーキスト」や「アナキズム」といった文言が踊るその他多数の書籍に囲まれていることから、どうやらアナキズム関連の本であること、そして一定数の読者が興味を持つであろうトピックになっている、ちょっとしたブームですらあることがわかった。

アナキズムに興味を出し始めたのはたしか黄金頭さんのブログ。たしかこの記事だったと思う。この頃はアナキズム関連の本を多く紹介されていたと記憶している。

goldhead.hatenablog.com

当時もこの『狂い咲け、フリーダム アナキズム・アンソロジー』という本を読んでみたのだが、どうも自分には合わないというか、途中で挫折してしまった。まだ自分の中で準備ができていないだけだったかもしれない。とにかく、そのままアナキズムという言葉だけが頭にぼんやりと残ったまま、興味は次第に薄れていった。

アナキズムに対する興味が再燃したのは、先日読んだ『反穀物の人類史』。この中で描かれていた「野蛮人」にアナキズムという言葉が重なった。統制される社会から隔離されたところ。「野蛮」だとしてもそこには自由もあった。広がりつつあった国家と農耕社会と搾取。そこから「ズレた」ところで暮らしていた「野蛮人」。定義からすれば、それもひとつのアナキズムだろう、と。そこに、自分がぼんやり描いていた一つの可能性があったように感じたのだ。リアルな理想像が。

さて本書。福岡のある里山に移住した哲学者による哲学エッセイ。生活を「哲学的」な側面で語りながら、哲学、アナキズム、そしてタイトルにある「革命」の世界へと誘う入門書。アナーキーとは無秩序であることを意味しない。さあ、みんなも一緒に、あるいは一緒にではなくても、それぞれがやれることをやり、「革命」を目指そう。そういう一冊だ。一般的な生活とはすこし「ズレた」生活を語る単なるエッセイとしても楽しめる。ははは、変わった人。こんな人でも生きていけるのなら(失礼)、私も大丈夫かしらん、と。なんだが元気になる本だ。

とまあ、全体を通してかなり軽快に読めるエッセイだが、ところどころ哲学者らしい本気語りもある。家探しから、農業、仕事、料理、旅行、お金など、テーマも多岐にわたるが、すべて生活に根ざしたもの。軽口を叩いていたかと思えば、急にヒートアップしてアナキズムを語り出す。なんだか変なおじさんが語ってるわ、と思ってたけど、一度話を聞き始めたら面白くて聞き入ってしまう。気がついたらそのおじさんのことが好きになっている。そんな本だ。

著者は東京都出身ながら、現在は九州を拠点としているようで、同じ九州移住組としては仲間意識を感じてしまう。世代も近い。会ったことはないが、もう仲間だと勝手に思えてきた。

軽口モードの著者には、どこか土屋賢二の匂いもする。哲学を好む人々には何らかの傾向があるのだろうか。そうだ、さっきは「もう仲間だ」と書いたが、実際に友達になれるかどうかはわからない。そう、もう一つ感じた匂いが、リア充臭なのだ。なんだか底抜けに明るい。仲間作りが異常にうまい。俺みたいな根暗で、人間が苦手なタイプはどういったアナキズムを実践できるのだろうか。

そうだ。ロックは初期衝動だと言った人がいた。意外と正式な定義なのかもしれないが、この著者もバンドをやっていることもあるかもしれないが、そういう意味でとても「ロック」だ。ロックンロールな生き方だ。そういえばセックスピストルズだって「アーイ、アマー、アナーケイスト!」(I am a anarchist)と叫んでいた。

ハートに突き刺さる金言も見つかった。例えば、

地域をディグれば民衆史が見つかる

これは、まさにここ数年考えていたことでもある。九州に引っ越してきてから、九州地域と朝鮮半島の古代からのつながりを感じることが何度かあった。唐戸に行った時もそうだったし、先日ジョギング中にふとみつけた遺跡にも、朝鮮半島とのゆかりを感じることがあった。韓国生まれの女性と結婚した自分がたまたま九州に移住してきたのに、どこか運命的なものも感じたほどだ。

さて、革命である。自分がぼんやり考えている「革命」とは、いったいどう意味を持ちうるのだろうか。その問いに対する、ほぼそのままの回答があった。文字通り「革命」という名の章である。

革命って、おかしくなっているこの生活環境を、もっと言えば、捨て去られてしまったものを、もう一度巻き込んで、前に推し進めていくことだ。

こうも言っている。

こうした革命などが起こっていなくとも、革命以前に、革命後の世界を先に実践していくことなのではないだろうか

革命後の世界をイメージして、それを先どって実践して生きていこう。そういうことらしい。『反穀物の人類史』で感じた「野蛮人」への一種の望郷の念。そこへの道筋が見えたような気もする。革命っていったって、文字通りの「あの革命」を起こさなくてもいい。革命的な、レボリューショナルな思考を展開し、それに基づいて生活を実践すれば、それがまた何らかの形で他者に広がる可能性はある。草の根的な?それでいいんだろう。

アナーキストって、なんだかリア充じゃんか、という腰砕け感もあったが、とはいっても、自分みたいなやつにも道がないわけじゃない。アナーキズムの社会の奥深さも垣間見えた。根暗なりに革命的に生きればいいのだ。

どうやら、やっぱり、革命しかなさそうだ。

小林 佳世子『最後通牒ゲームの謎』

最後通牒ゲーム」という心理学の実験を軸に、人間の行動とその心理を探る、ゲーム理論進化心理学行動経済学の入門書。

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先日読んだジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』と同分野の本で、本書でも何度か言及があった。

yushinlee.hatenablog.com

ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』はかなり広範な内容を扱った本だったが、その分扱われる話題も豊富だった。それはそれで面白いのだが、やはり読了後に頭の中が散らかっている感覚はあった。本書では「最後通牒ゲーム」というひとつの実験を軸にしているので、比較的集中しやすく、入門書として非常にわかりやすかった。最後にあった関連文献の紹介も詳しくてよい。ハイト本よりも、こちらを最初に読んでいた方がよかったかもしれない。

ひとつの実験といっても、分析の仕方は複数あり、また実験自体にも様々なバリエーションがある。そして世界中で実施された「人気の」実験らしく、参照できる実験データも豊富なのが特徴。そこから得られる知見をできるだけわかりやすく、搾り取ったものを形にしたのが本書といったところ。

ハイトはかなり断定的な文章だったが、本書の著者は、データが足りていなかったり、矛盾するデータがあったりする場合もちゃんと言及してくれる。断定的な記述はほぼ皆無で、そういった「正直」で慎重な態度にも好感を感じた。とはいえ、なんだか今後の課題ばかりだなぁという印象もあるが、実際にそうなのだろう。そもそも、心理学の実験結果というのは、ミスリードなことが多い気がしないでもない。なかなか「こういうことがわかりました!」と断定することは難しいように思う。何らかの結論が得られそうでも、「ただし諸条件による」といった注意書きがほぼ必ず必要だ。だからこそ、ハイトの本ではどうもモヤモヤを感じざるおえなかった。

心理学の実験結果がいかに「怪しい」と思っても、ある程度の知見は得られる。私たち人間は、なぜ裏切り者を見つけるのが得意なのか。なぜ他者の評価をそれほど恐れるのか。なぜゴシップを好むのか。自粛警察が生まれる土壌とは何なのか。なぜ私たちは一見不合理と思えることをしてしまうのか。などなど。そこには私たち人類が進化してきた歴史が関わる。長く厳しい古代の時代に生き残ってきたときの記憶が色濃く残っている。個人としては不合理に見えても、集団としては合理的な行動と考えることができる。まさに「予想どおりに不合理」なのだ、と。

では個人として私たちはどう行動すればよいのかという点については、まだよくわからない。例えばコロナ禍の自粛警察だが、どこまでは集団のメンバーとしての「健全な」自衛的行動となり、どこからが行き過ぎなのか。ゴシップ欲を刺激する要因はわかったが、だからといってゴシップを奨励しても仕方がない。いずれにしても、最終的には、左と右と中間の人たちがみんなで議論しながら、少しずつ健全な世界を作っていくしかないのだろう。

そのような対話すらできないのが現在の世界とはいえ。

Switch『ゼノブレイド2』本編とDLCクリア

いつからやっているかもう忘れてしまったが、Switchの『ゼノブレイド2』の本編とDLC『黄金の国イーラ』をクリア。プレイ時間は本編で100時間以上、DLCで20時間以上。マイページには合計で130時間以上となっていた。

ゲーマーでありながら、どちらかというと飽きやすい性格で、DLCまでしっかりプレイしたのは記憶している限り初めてで、これだけプレイ時間が延びたのも過去最長。最近はまったゲームを考えても、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』で100時間を少し超えた程度。ブレワイではDLCも買ったには買ったが、チャレンジ系の追加のみだったので、結局すぐに放り投げてしまった。その点こちらの『黄金の国イーラ』はストーリーがしっかり作られていて、ほぼ単体のREG作品として楽しめた。ゲームシステムも本編から少し改良が加えられていたりと、飽きさせない工夫もあった。20時間もやっているんだから、通常の作品と引けを取らないボリューム。

『ウィッチャー3』も同じく本編クリアが100時間程度で、あれも仕事に影響が出るほどはまった作品。DLCもあったのだが、本編クリア後に疲れてしまい、そのまま寝かせてある。『ウィッチャー3』のDLCはストーリーもよくできているとは聞いていたのだが、なんだかあの世界観に少し疲れてしまった記憶がある。北欧ファンタジー(?)というあまり馴染みのない世界だったからかもしれない。その点、ゼノブレイド2は国産ソフトであるため、疲れず続けてDLCに入れたのかもしれない。

本編はもちろん、DLCまでストーリーがよくできていた。ゲームシステムもわかりやすく、また適度に慣れが必要というか、キャラクター操作が徐々に馴染んでくるという、そういった快感もあった。

『黄金の国イーラ』は本編の500年前を舞台とする前日談。500年前とはいえ、SFの世界の話なので、登場人物も重複し、本編を思い出しながら物語に浸れる。そして『黄金の国イーラ』クリア後は、また不思議と本編に戻りたくなる。さすがに2周目まではしない(予定だ)が、何度も繰り返しプレイしたくなる気持ちも初めてわかった。

昨年には『ゼノブレイド ディフィニティブ・エディション』もクリアしているので、これで一通りこの世界は味わえたのかと思っていたら、つい先日、続編となる『ゼノブレイド3』の発売が発表。今年の秋から冬は、またゼノブレイドの世界を駆け回ることになりそうで楽しみ。

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