ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』

世界的に社会の分断が著しい。右派と左派の断絶を日常的に感じるようになったのは、単に自分が年を食ったからなのか、それとも本当に社会の断絶は深まっているのか。どうやら後者のようだ。そしてこれは日本だけの話ではない。

こういった政治的な対立の激化について少し理解が進むのではないかと思い手に取ったのが本書。読んでみれば、思ったよりも広範な内容で、著者が道徳心理学の原理の一つと挙げている「直感」の重要性の話から始まり(この著者のことを知るきっかけとなった「象と乗り手」の話)、社会の形成に求められる道徳とは何なのかを定義し、そしてそれが私たちにどのように影響し、我々を分断するのか。構成としても非常にわかりやすく、順立てて議論が進む。各章の終わりには「まとめ」があり、先をどんどん読み進めようとする私のようなせっかちな読者にはありがたい。

先ほど一通り読み終わったところだが、特に最終部にかけては、なんだか自分の顔に冷水をぶっかけられたかのような気分だった。自分の中で眠っていた考え方が少し目を覚ましたような感覚。爽快と言えば爽快だが、どちらかというと反省の念が強い。

概ね著者の言っていることには同意できた。たしかに象の乗り手に過ぎない理性だけでは、物事を変えるのには力不足だ。象に訴えかける、つまりより情感的な側面に訴えかける必要があると。比較的右派はこれを得意としていて、左派が苦手としている。

しかしだ。そうといっても、それは今まさに問題となっているポピュリズムにつながってしまう危険性をはらむ。情感だけに訴えるとやはり大きく誤ってしまうので、この辺のバランスはしっかり見ないといけない。この点については訳者あとがきにも言及があったし、まあ今読むと当然の疑問点にはなるだろう。『モラル・トライブズ』(これもAmazonのウイッシュリストに長らく残っている)のジョシュア・グリーンなどはこの点を批判しているそうだ。続けて読んでみたい気もするが、かなり内容がオーバーラップする気もする。

今回大きな気付きになったのは、自分が持っていた右派に対するイメージ。いつも世の中の右派的な言動を見ながら「想像力が足りない」と自分なりに頭の中で批判していた。社会的弱者に対するケアが足りないのは、彼らにその立場を想像することができないからだ、その能力が欠如しているのだ、と。しかし、本書を読んで、想像力が足りなかったのは自分も同じだったことに気付いた。ハイトが見事に提示して見せた6つの道徳的基盤。保守主義者が重視する道徳的基盤について、自分はあまり検討したことがなかった。社会として前進するには、そして左派的な態度で世の中を見ている自分としては致命的な欠陥だし、なぜ左派が右派を、そして右派が左派を理解しにくいのか理由もわかった(つまり自分だけの問題ではないようだ)。

一方で、最後までしっくりこなかったのが、ハイト氏が言う「神聖」基盤。宗教の重要性。そして彼が驚くほど厳しく批判していた新無神論。確かにこれまでの歴史を振り返り、宗教が果たしてきたよい側面もあるだろう。どれだけの人間が犠牲になったとしても、集団間の争いに勝てる強い社会を生み出すには重要な役割を果たした。集団を結束させるその力にも納得だ。だが、今後もその役割は果たし続けるのだろうか。それとも、それに変わる基盤がありうるのか。宗教的な統一は可能なのだろうか。それにはある種、宗教からの脱却が起こりえるのだろうか。また、最後までどこか納得できなかったのは、無神論的な態度を持った自分の偏見なのだろうか。再読するか、新無神論の本を読んでみると少し見え方が変わるかもしれない。

本書を読みながらふと思い出したのは、以前テレビ討論で見かけたロバート・キャンベル氏の発言。たしか、フェミニズム関連の議論で、他国と比べてなぜ日本ではこういった少数派・弱者の救済・権利をを求める運動が広がりにくいのかという話になっていた。そこでキャンベル氏は「そういった動きが広まることで失われるかもしれないこと」も考慮しなければならない、というようなことを言っていた。それを、「社会としてのレジリエンス」というような表現で表していたと思う。そういった諸刃の剣という側面があると。たとえば天災などが起きたときに、社会としてそれに耐え、そこから立ち直る強さのようなもの。日本では直球でわかりやすい比喩だったし、キャンベル氏の「引き出しの広さ」に驚き、これが知識人なのかと感銘を受けた記憶がある。

今思えば、あれこそ保守主義者のまっとうな意見だったのだろう。あるいは、右派の立場を想像できるリベラルのあるべき姿だったのかもしれない。キャンベル氏の政治的立場はわからないが、ああいった話し合いができるのであれば(当時のテレビ討論ではそれ以上話は広がらなかったような記憶がある)、未来は明るいのかもしれない。

もう一つ、本書とは関係ない話だが、今(日本、あるいはアメリカなどの)リベラルが対峙しているのが保守主義なのかという疑問はある。保守不在という声も聞くが、そうならば本書の議論も通用しないだろう。しかし、それもひょっとすると、左派(を自認する自分)の想像力の欠如から生まれたことに過ぎないのだろうか。ああ、自分が疑わしい。。。

それにしても、一人の人間に与えられた時間だけで(生存するために仕事をして、ある程度生活を楽しみながら)満足できるまで世の中を理解することはできるのだろうか。。