ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

斎藤幸平・編『未来への大分岐』第二部:マルクス・ガブリエル

第二部はマルクス・ガブリエル(MG)との対談。

第一章では「ポスト真実」を取り上げる。

哲学を使ってよりよい社会を作るのにどう貢献できるのか。MGはメディアでの露出も多く、個人的にはそれほど追っていなかったが、哲学者としてではなく、メディアに人気の論者という印象。少し違うが、研究者としてだけでなく、世の中に出て学びたいということを言っていた頃の茂木健一郎氏を思い出す(結果、クイズ番組に出たり、個人的には何がしたいのかわからなかった)。

自明であることから目をそらす「相対主義」を批判しているが、何を持って「自明」と言えるのか。これは個人的に最近の小テーマだったこともあり、なんだかすっきりとしない。「聖書は正しい」ことからはじめる宗教家のような、どこか危うさがないのか?チョムスキー批判もあるが、少し辛辣な気もした。報道で報じた内容が事実であったとして、それを選択して報道する(あるいはほかのことを報道しない)ことがミスリーディングになりうることはあるが、そういうことは関係ないのか?自明の事実であったからといって、それがプロパガンダではないということもそのまま自明になるのか?チョムスキーに見られる程度の「矛盾」はこの対談のこの章だけでもありそうだ。

映画『マトリックス』を引用してドヤ顔しているような箇所もあるが、ここでリチャード・ファインマンを思い出した。どこかの本で彼は、科学者の自分に科学以外のことを聞くのは適切ではないと言っていた。哲学者であるMGはどこまでが専門と言えるのだろう。科学者よりは広く、社会を論じてもよいだろうが、哲学者だからといって正しい道しるべになるかはわからない。少し心配なのは、彼があまりに有名であること。いかにも、日本の大衆が弱そうなタイプではないか。

今のところMGの社会的・政治的なスタンスは比較的共感できるのだが、どうもその手法というか、説明というか、「そこまで言えるのか?」と少し驚いてしまう。SNSWikipediaを規制で縛るというのも、少し安易ではないか。なぜSNSWikiを縛ることなく飼い慣らせると思わないのか。それが自明でないのかがわからない。

第二章は「人間の終焉」。相対主義が生み出すのは、他者の非人間化である。暴力を肯定することになる。その相対主義に対し、事実を擁護するというMGの新実在論

ポストモダニズムの功績は、近代の普遍性の嘘を暴いたこと。普遍とは、白人、男性、異性愛者という特定の層に限定されていた。

MGのニーチェ批判も。保守的なもの、不平等性を正当化する者として。1968年の思想的基盤としてあったニーチェ。誤った思想的枠組みのなかで取り組んでしまったことによる失敗。ハイデガーナチスも言及。

第三章は新実在論。社会構築主義(すべてのものが社会的に構築されたものとする考え)の問題点を突く。物事は「特定の社会的構造による」と言ってしまえることで、普遍性を見失い、現実が見えなくなるという危険性。

MGの「世界は存在しない」。わかったとは言えないが、つまり、個々のものはすべて存在するが、そのまとまりを表す「世界」なるものは存在しないと。宇宙を使った思考実験が少しわかりやすい。ここまで読むと、彼が相対主義や社会構築主義を批判する理由が見えてくる。事実をより適切に捉えるという姿勢のようなことなのか。当初に感じていたMGに対するぼんやりとした不安が少し消えた。

自然科学を絶対視する危険性にも言及していた。コロナ禍での医学界の捉え方も関係しそう。テクノクラシー。自然科学に特権を与えないこと。

異なるパースペクティブの間を取り持つ、絶え間ない管理や調整のプロセスとしての民主主義。すべてがプロパガンダだと懐疑的になることから、悲観主義に陥る危険性。熟議型民主主義。倫理は前提となる。などなど。

第四章では、気候危機など、より具体的な問題の話に。

教育改革の必要性。日本では読み書きのリテラシーは高いが、哲学的思考を学ぶ機会が少ない。考えることになれていないから、強いリーダーに頼ってしまう。まかせてしまう。社会が重視する価値観を調整、いや大きく転換させる必要がありそうだ。MGは哲学教育といっているが、具体的にはどのような教育なのだろうか。具体的にイメージできない。

気候変動の問題が自明であっても、逃げ切ることができる世代にとっては、個人レベルでは「自明」ではない。個人主義を疑わなければならない。

これは資本家個人の道徳が欠如しているからではない。目下の利益のために行動せよと駆り立てられている。資本主義の構造的な問題なのだ、と。

斎藤:「人間が現実に直面するだけの強さを持っていると思うか?」

これは強烈な問いだ。斎藤氏は、人間が決定する前に、AIに任せてしなうのではないかと恐れている。個人的には、そもそもその「強さ」はないと恐れている。なんだか自分の絶望を気付かされた。

AIには決定できず、人間の方がうまくやれると言うMG。AIは倫理を扱うことができないから。倫理をプログラムすることはできない、倫理的選択を行えるアルゴリズムは存在しない、と。AIは死ぬことはない。であれば、どう生きるかは問題ではなくなる。そうなら倫理も持つことはできないではないか、と。なんだか飛躍のようにも感じるが、言いたいことはわかる。

コンピュータは意識の担い手にはなりえないと断言するMG。これがどこまでそうなのか。もっと調べて考える必要がありそうだ。

第五章。無知のヴェールという思考実験。倫理的な問題は、ここから答えを導き出せるが、政治的な回答はできない。回答は一つではなく、絶え間ない調整が必要であるから。ただ、倫理的問題と政治的問題を混同してはいけない。女性の権利は倫理的に自明、当たり前のことで、それを政治判断にしてはいけない。

それにしても、MGという人は全体的にすごく楽観的だと感じた。それが人気の秘密なのかも知れない。

最後に、私たち人間として、そしてより具体的にMGの哲学者としての倫理的責任の話があった。日本で、フリーランスとして、夫婦で暮らす私には、どのような倫理的責任があるのだろうか。