ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

森元斎『もう革命しかないもんね』|革命後の世界を実践しようぜ

「もう革命しかないのか」。心の中でそうつぶやくことが近年増えてきた。傍若無人に振る舞う上層の1パーセントを見たとき。残りの99パーセントの我々が、みっともない内輪のいざこざを起こして分断を深めている姿を見たとき。意味もわからずそうつぶやく。

自分でもそれがどのような革命なのかわからない。革命といえば暴力的なイメージもあるが、そんな暴力革命を望んでいるわけではない。暴力が伴わない革命があるはずだ。そう思いながらも、そんなことが可能なのか、あったとしてもそれが何を意味するのか想像もできなかった。

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この本のタイトル『もう革命しかないもんね』を見かけたとき、軽く衝撃が走った。そう感じていたのは自分だけではないのかもしれない。それも、自分のような疑問文ではなく、やさしくではあるが、断言している。その本屋でも、「アナーキスト」や「アナキズム」といった文言が踊るその他多数の書籍に囲まれていることから、どうやらアナキズム関連の本であること、そして一定数の読者が興味を持つであろうトピックになっている、ちょっとしたブームですらあることがわかった。

アナキズムに興味を出し始めたのはたしか黄金頭さんのブログ。たしかこの記事だったと思う。この頃はアナキズム関連の本を多く紹介されていたと記憶している。

goldhead.hatenablog.com

当時もこの『狂い咲け、フリーダム アナキズム・アンソロジー』という本を読んでみたのだが、どうも自分には合わないというか、途中で挫折してしまった。まだ自分の中で準備ができていないだけだったかもしれない。とにかく、そのままアナキズムという言葉だけが頭にぼんやりと残ったまま、興味は次第に薄れていった。

アナキズムに対する興味が再燃したのは、先日読んだ『反穀物の人類史』。この中で描かれていた「野蛮人」にアナキズムという言葉が重なった。統制される社会から隔離されたところ。「野蛮」だとしてもそこには自由もあった。広がりつつあった国家と農耕社会と搾取。そこから「ズレた」ところで暮らしていた「野蛮人」。定義からすれば、それもひとつのアナキズムだろう、と。そこに、自分がぼんやり描いていた一つの可能性があったように感じたのだ。リアルな理想像が。

さて本書。福岡のある里山に移住した哲学者による哲学エッセイ。生活を「哲学的」な側面で語りながら、哲学、アナキズム、そしてタイトルにある「革命」の世界へと誘う入門書。アナーキーとは無秩序であることを意味しない。さあ、みんなも一緒に、あるいは一緒にではなくても、それぞれがやれることをやり、「革命」を目指そう。そういう一冊だ。一般的な生活とはすこし「ズレた」生活を語る単なるエッセイとしても楽しめる。ははは、変わった人。こんな人でも生きていけるのなら(失礼)、私も大丈夫かしらん、と。なんだが元気になる本だ。

とまあ、全体を通してかなり軽快に読めるエッセイだが、ところどころ哲学者らしい本気語りもある。家探しから、農業、仕事、料理、旅行、お金など、テーマも多岐にわたるが、すべて生活に根ざしたもの。軽口を叩いていたかと思えば、急にヒートアップしてアナキズムを語り出す。なんだか変なおじさんが語ってるわ、と思ってたけど、一度話を聞き始めたら面白くて聞き入ってしまう。気がついたらそのおじさんのことが好きになっている。そんな本だ。

著者は東京都出身ながら、現在は九州を拠点としているようで、同じ九州移住組としては仲間意識を感じてしまう。世代も近い。会ったことはないが、もう仲間だと勝手に思えてきた。

軽口モードの著者には、どこか土屋賢二の匂いもする。哲学を好む人々には何らかの傾向があるのだろうか。そうだ、さっきは「もう仲間だ」と書いたが、実際に友達になれるかどうかはわからない。そう、もう一つ感じた匂いが、リア充臭なのだ。なんだか底抜けに明るい。仲間作りが異常にうまい。俺みたいな根暗で、人間が苦手なタイプはどういったアナキズムを実践できるのだろうか。

そうだ。ロックは初期衝動だと言った人がいた。意外と正式な定義なのかもしれないが、この著者もバンドをやっていることもあるかもしれないが、そういう意味でとても「ロック」だ。ロックンロールな生き方だ。そういえばセックスピストルズだって「アーイ、アマー、アナーケイスト!」(I am a anarchist)と叫んでいた。

ハートに突き刺さる金言も見つかった。例えば、

地域をディグれば民衆史が見つかる

これは、まさにここ数年考えていたことでもある。九州に引っ越してきてから、九州地域と朝鮮半島の古代からのつながりを感じることが何度かあった。唐戸に行った時もそうだったし、先日ジョギング中にふとみつけた遺跡にも、朝鮮半島とのゆかりを感じることがあった。韓国生まれの女性と結婚した自分がたまたま九州に移住してきたのに、どこか運命的なものも感じたほどだ。

さて、革命である。自分がぼんやり考えている「革命」とは、いったいどう意味を持ちうるのだろうか。その問いに対する、ほぼそのままの回答があった。文字通り「革命」という名の章である。

革命って、おかしくなっているこの生活環境を、もっと言えば、捨て去られてしまったものを、もう一度巻き込んで、前に推し進めていくことだ。

こうも言っている。

こうした革命などが起こっていなくとも、革命以前に、革命後の世界を先に実践していくことなのではないだろうか

革命後の世界をイメージして、それを先どって実践して生きていこう。そういうことらしい。『反穀物の人類史』で感じた「野蛮人」への一種の望郷の念。そこへの道筋が見えたような気もする。革命っていったって、文字通りの「あの革命」を起こさなくてもいい。革命的な、レボリューショナルな思考を展開し、それに基づいて生活を実践すれば、それがまた何らかの形で他者に広がる可能性はある。草の根的な?それでいいんだろう。

アナーキストって、なんだかリア充じゃんか、という腰砕け感もあったが、とはいっても、自分みたいなやつにも道がないわけじゃない。アナーキズムの社会の奥深さも垣間見えた。根暗なりに革命的に生きればいいのだ。

どうやら、やっぱり、革命しかなさそうだ。