ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

チョン・セラン『フィフティ・ピープル』

ふと、この世界には人が多すぎる、と思うことがある。外を少し歩いてみるだけで、何人、何十人、場所によっては何百人の人を見かける。自分の人生、生活だけを考えるのにも精一杯なのに、この人たちにも一人ひとり、同じ大きさの世界、生活があると思うとめまいすら感じてしまう。

本作を読んだことで、今まで見えていたこういった人々の映像、印象が少し変わった気がする。タイトル通り、50人の人々(あとがきによると実際は書きすぎて、51人だそうだ)の物語で構成される短編集であるが、それぞれの物語、登場人物、事件が交差し、一続きの長編として読める。こういう手法は恐らく新しいものではないのだろうが、個人的には初めて出会ったタイプだったので、面白く読めた(伊坂幸太郎が似たようなの書いていた気がするが、詳しく覚えてはいない)。

それぞれは数ページから、長くても十数ページ程度の短い物語で、なんてことのない話から、衝撃的な話までさまざま。「ん、この話前に聞いたな?」ということが各所にちりばめられており、前のページをパラパラと戻って確認したりと、少し変わった読書体験となった。ひょっとすると再読を狙った効果なのかもしれない。

そして最後の章でほぼ全員が集合し、一冊の長編作品とまとまる。人間は社会的な生き物だ。必ずどこでほかの人々とつながり、暮らしている。

ひょっとすると、僕の何気ない一日の一幕が、ほかの誰かの生活に影響しているのかもしれない。自分が翻訳した文章を読んで何かを思い、行動を変えた人がいるかもしれない。あるいは、僕がふと人混みで発した言葉が、もっと大きな影響を与えたのかもしれない。通っているお店の店員さんと、気付いていないまったく別の関わりがあるのかもしれない。人間というのは社会なのだと強く感じさせられた。

たった51人の、その生活のほんの一部を切り取っただけなのに、これだけの広がり。登場人物が互いに絡み合う短編集なのだが、名前を追うのも大変だ。この世の中に住む人々が感じていること、喜び、悩み、痛み。これらをすべて集めたら、それはいったいどのようなものなのだろうか。そのほんの一部を実現したのが本作なのだろう。人間が作り出す世界の大きさ、これに驚くばかりだ。

最後の訳者あとがきには、本書の背景となった韓国内の事件などがまとめられている。こういった背景を頭に入れ、Wikipedeia等で調べてから再読すると、近年の韓国の状況がよりはっきりと見えてくるかもしれない。個人的にもシンクホールの事件などは知り合いの知り合いが被害に遭ったこともあり、まだ生々しく感じた。

そういえば最近『東京の生活史』という鈍器本が人気のようだが、あれは本作と同じ思想でノンフィクションにしたものなのだろうか。機会があれば今度読んでみたい。