ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

『人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか』中川毅

気候変動と聞いて頭に浮かぶのは、環境破壊、二酸化炭素SDGs、グレタさん、などなど。巷でも騒がれている、現在の人間の活動による今後50~100年の地球温暖化の問題である。ほぼ手遅れに近いとされている近年にやっと世界的に盛り上がってきた、あれである。個人的にも、これはまずいのではないかと焦ってきたのはここ数年だから、当然人のことをとやかく言えない。

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そして、わかっているようでわかっていない、この気候変動と温暖化の問題。その辺を理解を深めようと手に取ったのが本書。十万年のデータから知見が得られるのなら、今後どうすればよいのか見えてくるだろう。だってタイトルにもそうかいてあるんだから。

蓋を開ければ、過去のことはざっくりとながらよくわかった。実際の研究者の話だから信頼性も高い(自身の研究の話が軸になっている)。長い地球の歴史の中で気候がどのように変わってきたのか。今が非常に特異な期間であることも、いろいろと学べた。しかし、肝心の「これから何が起こるのか」は結局わからなかった。地球規模の気候というのは本来予測つかないものである、というのが「これから何が起こるのか」の結論になっているとも言える。いや、それこそが気候による危機の本当の意味かもしれない。

人間の活動と温室効果ガスにより地球が温暖化しているのは(本書ではそれほど取り上げられていないが)ほぼ間違いないだろう。温暖化の責任が100パーセント人間の活動になかったとしても、ある程度の関係性が明らかな部分については見直すべきという立場は変わらない。しかし地球の気候が本来持つ振れ幅というのはもっと大きい。思えば自分が若い頃は、どちらかというと寒冷化の心配の方が大きかった。今私たちが過ごしている時代は「不自然に」長い間氷期ということらしい。そもそも安定期の期限切れが近かったのか。人間の活動による温暖化が寒冷化を引き留めているのか。あるいはそれがバタフライ効果のように、暴力的とも言える不安定期に入る引き金となるのか。

今年もそうだが、ここ数年、世界中の気候がおかしい。先日もイギリスで観測史上発の40度超えを記録している。日本でも○○年に1回の規模の災害が頻発している。「何かがおかしい」というのは、日本だけでなく、世界中で共通のようだ。

結局私たちはどうするべきなのか。望ましいのは安定期が続くこと。できることは何か。技術力を高めたり、農耕依存から脱却したりして、人類が種としての適応力を高めることぐらいか。

SDGsとか地球温暖化とか、あれ何だったんだろうね」と振り替える時代が来るのかもしれない。

 

 

『波止場日記―労働と思索』エリック・ホッファー

ゆっくり、とにかくゆっくり、毎回数ページずつ読んだ。他人の日記を読ませてもらうのだから、それだけ丁寧に読まなければ失礼だろう。

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ホッファーについては最近『大衆運動』の新訳が発売されている。今こそ読むべき本なのだろうか(常にそう言われ続けているとは思うが)、それとも日本で単に受けがいいのか。いずれにしても非常に喜ばしい。ちょうど再読しようと思っていたから、今度は新しい訳で読んでみたい。

さて、これはそのホッファーによる日記。というと膨大なボリュームになりそうだが、これは1958~59年のほんの1年間の日記である。この期間はホッファー自身によると「やっかいな」時期であり、頭を整理する意味で書き始め、気付いたらやめていたという。そのノートをなぜ出版したのか(本人による前書きもあるので、死後掘り返されて無断で出版されたような代物ではない)。一読者からすると、そもそもホッファーの著作物はアフォリズムの形式が多く、そういう意味では日記であってもいいではないかと思う。またこの日記という形式だからこそ見えてくることは多い。

労働者として働きながら思索を続けるとはどういうことなのか。ホッファーの実際の日常風景が見えてくるという意味で非常に興味深い内容で、そこここにちりばめられているアフォリズムにゴクリとなる。

つい唸ったホッファーのつぶやき(アフォリズム)を以下に少し挙げておく。

教えたいという衝動――学びたいという衝動よりもはるかに強力で原始的――は大衆運動を盛り上げる一つの要因なのではなかと考えたくなる。

この衝動を加速しているのがSNSなんだろうな

人間は、成就感のもたらすつかの間の浮かれ気分を求めるために、永遠に通用する好都合な言い訳を放棄しようとはしない。

虐げられたものたちが前に進めない原因はほぼこれに収束するのかもしれない

ほとんど、あるいはまったくなんの報酬もなしに人間を働かせたい場合には、人々をファナティシズムにかりたてなければならない。熱情は技術の、そしてまた資本の代わりとなる。

現在の搾取型資本主義のしくみを一言でいうならば・・・これか

私が満足するのに必要なものはごくわずかである。一日二回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の著述を毎日。これが、私にとっては生活のすべてである。

この日記を読む限り、これは向田邦子が言っていた「やせ我慢」としての清貧ではなく、純粋にこう信じていた。ある意味、アメリカの黄金時代を生きていたのだろうと思う

彼は典型的な小知識人、つまり、観念に関心をいだいているが独創的な観念とはなにかがまったくわかっていないのである。観念は彼の人生においてどんな役割をはたしているのだろうか。おそらく、自分は高級な世界にいるのだ、現実の騒音や周期や苦痛を超越しているのだ、という感じを与えてくれるのだろう。

ホッファーの知識人批判がよくわかる。日記だからなのか、言っていることがそのまま伝わる。そして僕もすごく反省している。こういう態度は(ホッファーの言う「彼」の態度は)普遍的なもので、誰であろうと気をつけなければいけないものだと思う

私は緊張するのが大嫌いなので、野心をおさえてきた。また、自己を重視しないよう、できるだけのことをしてきた。

ホッファーに親近感を感じてしまうのは、こういうつぶやきにある。彼も何らかの不安症だったのだろうか。ホッファーも現代に生きていたら「逃げている」と批判されるのだろうか

人間の精神現象で、伝染性がもっとも強いのは、人種的な優越感である

これも万人が自身に日々言い聞かせるべき警句。この優越感から完全に自由になることは相当難しい(不可能でなければ)。それをニルヴァーナというのかもしれない

自由に適さない人々――自由であってもたいしたことのできぬ人々――は権力を渇望する

自分が権力を渇望しないのは、自由だからなのだろうか。自由に満足することを知っていることなのだろうか。簡単な言葉だけど実際は難しく、でもゆっくりと考えると不思議と腑に落ちる

専制君主は非人間化を――人々をものに変えたいと――願い、一方弱者は人間の独自性の緊張に疲れて自由選択という重荷をおろしたいと切望する。

ここ日本でも想像しなかったことが起きている現在。それでも何も変わらないのではと絶望してしまうのは、この言葉がおそらく真実をついているから

 

 

『向田邦子ベスト・エッセイ』向田 和子 編

学生の頃、たぶん夏休みだったと思う。父親の仕事の手伝いに客先にかり出されたことがあった。家では寡黙だった父。大人になった今では対等に話せるようになったが、自分が高校生の頃までは父が怖かった。中学1年の頃、英語の宿題だったかテスト用紙だったかを見られ「三人称単数すらわかってないのか」と怒鳴られたことをよく覚えている。貿易を営む父にとって語学の才能がなさそうな息子に幻滅したのだろう。

あの日、その怖かった父親が、客先ではへこへことしながら嘘みたいなお世辞を繰り返していた。これが大人の言う「社会」なのかと恐ろしくもあり、また情けない態度で客に接する父親に幻滅した記憶がある。

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向田邦子ベスト・エッセイ』に収録されている「お辞儀」というエッセイを読みながら、なんだかつい思い出してしまった。夜中に古い思い出を引っ張り出して反芻しながら、ひょっとしたらあれは父親が意図して見せた姿だったのかもしれないと思い直した。父親の思う「社会に出ること」の意味を息子に見せようとしたのだろうか。単純に人手不足で、それこそ猫の手も借りたいというだったのか。後者のような気もするし、前者であってほしいとも思う。

読者としては感度が低い自分にもこんな過去を掘り出させるというのは、やはり向田邦子というのはいいエッセイストだったのだろうと思う。

時代を感じるところも多く見られるが、それがまた今読むと味わい深い。父親との親子関係などは現代の感覚からするとかなり古くさく感じる。一方、水ようかんの話なんかは、自分も水ようかん愛好家であることもあり、変わらない良さを感じることができた。車窓から見えたライオンの話も衝撃的で、そのときの映像がありありと目に浮かぶようだ。その後日談まで笑える。出来過ぎていて疑ってしまうほどだ。

ベスト盤ということでどれも面白いエッセイばかりだが、ベリーベストをあえて一つあげるとすると「手袋をさがす」になるだろう。時代性を感じるエッセイだが(いや、当時としては、時代を牽引する内容だったのだろう)、特にこのエッセイは一気に書き殴ったような勢いというか、「熱量」がたまらない。「これが私の生き方だ」と堂々と主張するエッセイなのだが、そのプロップとなるのが手袋というのがいい。「清貧という言葉が嫌い」とはっきり言うところなんか、今の自分とは価値観は真逆に近いくらい違うのだが、その態度も気持ちがよい。高度成長期という時代もあったのだろう。もし向田邦子が長生きしていたら、平成から令和への現代を見ることができていたら、価値観はどのように変遷したのだろうか。つい想像してしまいたくなる。

 

元総理の銃撃と不穏な日々

安部元首相が銃撃され亡くなってから3日。やっと気持ちも落ち着いてきた。

政治的にはまったく気に入らない人物で、ことあるごとに彼の政策や言動に反発していた。しかし、まさかあのような形で最期を迎えるとは。

最初は当然政治的な意図を持ったテロの一種だと思った。ほとんどの人がそう感じたはずだ。しかし、蓋を開けてみれば、非常に私的な怨恨からの犯罪だった。安部さんと統一教会の黒いつながりは前から知ってはいた。当然それは政治的な理由での関係性だったことから、政治がまったく関わらないわけではない。しかし、自民党統一教会の関係というのは、安部さん個人というわけではなく(ほかの自民党の政治家と比べてもかなり濃い関係だったとはいえ)、あくまで自民党の歴史の中で生まれた関係性だっただろう。統一教会に対する恨みでまさか銃撃されるとは、とばっちりとは言い切れないものの、非常に残念な終わり方であった。

物心がついて以来40数年、これまでいろんな事件・事故を見てきたが、日本での出来事としては、天災を除くと、恐らく人生でもっとも衝撃をうけた事件だったろう。今後これを超える事件が起こるのだろうか。

手製の銃による元総理の銃撃。やはりいまだにしっくりこない。日本でまさかこんなことが、と感じた人も多かろうが、一方で「手製の」というところに妙に日本らしいと感じている。これは自分のどの記憶に由来する感情なのかわからない。なんとかくオウム真理教を思い浮かべるのだが、それだけでもない気もする。

どれだけ気に入らない人物であっても、やはりこういう形で命を失ってしまったのはやるせない気分になってしまう。彼のこれまでの悪事も追及するのもさらに難しくなるだろう。参院選も制した自民党だが、今後どうなるのだろう。

疫病。戦争。そして政治家の暗殺。まだ上半期が終わったばかりだが、とにかく暗い一年だ。いや2020年以来ずっとこうか。これに災害でも追加されてしまわないだろうか。なんだか、なんとも言えないこの不穏な空気。不安で仕方がない。

『円』劉慈欣短篇集

三体シリーズですっかりファンになってしまった中国のSF作家、劉慈欣。本書は彼の短編集。

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時系列の順番に並んでいるので、劉慈欣の作風の変化なども楽しめるのだろうが、どれももれなく面白く、やはりこの人は才能の人なんだろうと再認識した。

SFと一口に言っても、テーマは幅広い。鯨、環境問題、宇宙戦争バタフライ効果、円周率、オリンピック、戦争、タイムトラベルなどなど。『三体』にも出てきた秦の始皇帝も短編として読めたのはうれしい。詩人の李白まで出ていて、さすが中華SF!と唸った。

個人的なお気に入りを挙げると「円」「月の光」「円円のシャボン玉「カオスの蝶」あたりだろうか。「月の光」に関しては、自分の妄想(くだらないと思えるこの世界の姿は、実は私たちが持ちうる最適解かもしれない)が物語という形になったような気がして、なんだかうれしかった。

 

映画『共犯者たち』

まだ記憶に新しい朴槿恵退陣とろうそく革命。先日の知床観光船の沈没でセウォル号沈没のときの記憶を揺さぶられた人も多いだろう。その後の文在寅政権も終わり、つい先日新しい大統領として尹錫悦氏が就任した。左派政権からまた保守政権へと戻ったわけだ。

尹錫悦大統領についてはすでにいい話を聞かないのだが、しばらくどう進めていくのか注目。しかし、やはり李明博朴槿恵政権で続いていた言論封鎖の傾向に戻ってしまうのだろうかと不安ではある。

そういえばそんなテーマの映画があったなあと思い出して観たのが本作『共犯者たち』。日本でもたしか上映されていて、行こう行こうと思っているうちに上映終了していた。いつもの流れである。

www.kyohanspy.com

保守政権時代のマスコミ、特に公営放送のKBSとMBCの腐敗を暴いたドキュメンタリー映画で、監督は自身もMBCのPD(プロデューサー)であったチェ・スンホ。権力者、そしてそれに阿るメディアの上層部の暴挙が実際の映像や音声で暴かれている。対象は権力者だけでなく、その手下となって暗躍する「共犯者たち」である。権力の腐敗というのは、韓国映画で頻繁に取り上げられるが、そのようなフィクションの映画に負けない現実があった。

監督のチェ・スンホは映画公開後、文在寅政権時代にMBCに返り咲いている、だけでなく、なんと社長を就任していた。この映画はやはり韓国内では相当の影響があったのだろう。就任後には不当に解雇された人々の再雇用など、再建に取り組んだとされているが、日本語の情報では詳細はわからなかった。

さて、再び保守政権に戻ったわけだが、今後どうなるのだろうか。尹錫悦大統領就任演説に参席していた朴槿恵の姿がとても象徴的にも思えた。どれだけKBSやMBCは「まともな」状態に戻ったのだろうか。

 

海外ドラマ『チェルノブイリ ーCHERNOBYLー』

チェルノブイリ原子力発電所の事故を扱った実話ベースの海外ドラマ。全5回で合計5時間程度と短いが、扱っているテーマがテーマだけに重厚で、見終わった今もなんだか気分は落ち込んでいる。

warnerbros.co.jp

未だに収束が見えないロシアのウクライナ侵攻でもチェルノブイリは話題に挙がっていた。ロシア軍がチェルノブイリ原発を占拠し、その結果周辺の放射線レベルが上がったというニュースがあった。

forbesjapan.com

この記事では、原発に対して破壊行為をしたというよりか、付近を戦車などで走った結果、放射性物質が含まれる土壌が空気中に巻き上がったことが原因である可能性が指摘されている。周辺に来たロシア兵も防護服などは着用しておらず、多くが被曝したと考えられているようだ。

さて、本作では、そのチェルノブイリ原子力発電所の事故の発生から、事故対応、そして真実を明かそうというその後の核物理学者や一部の閣僚による闘いを描いている。ほとんど全員が実在の人物がベースとなっていて、ノンフィクション性が非常に高い。

チェルノブイリ原子力発電所の事故は、その事故自体は当然知ってはいたが、細かいことについてはまったく無知だった。福島の原発事故のときも多く取り上げられたが、そのときですら詳しく調べようと思わなかったのを今更ながら不思議に感じてしまう。福島の情報だけでいっぱいいっぱいだったのだろう。

それにしても内容には驚かされる。ソビエト連邦の閣僚や権力者たちの態度がこれほど酷かったかどうかはわからないが(そもそも制作自体がアメリカとイギリスによるもの)、ある程度実際の姿を表していたとは想像できる。日本の「お役所仕事」とはまた次元の違う駄目さだが、実は今の日本の政治家にも共通する部分があるのかもしれないと思ったりもする。

実は第二の爆発の危険性があり、ホミュックという名の核物理学者の指摘と、レガソフ、シチェルビナらの取り組みによって何とか回避されたシーンが描かれている。ドラマを観ていると、これに気付いたのがたった1人だけだったのかと、本当に首の皮一枚で世界は救われていたのかと驚いたが、ホミュックは架空の人物で、当時レガソフを支援していた仲間の核物理学者をまとめた人格だったようだ。あのような状況でも正しいことをしようとした科学者が多くいたのだろうと、少しだけ救われた気持ちにもなった。

しかし、今更ながらだが、福島での原発事故との共通項が多くて、情けなく、暗い気持ちにさせられる。責任逃れ。ずさんさ。無計画さ。権力志向。犠牲になる地域住民。がん罹病率の上昇(日本の場合はまだ「可能性」だろうか)。チェルノブイリを経験したはずの人類が、また福島で似たような結果をもたらした。私たちはこれをずっと繰り返すのだろう。

最後に俳優陣。主人公のレガソフ役の人はよく知らなかったが、シチェルビナ役の人は『グッド・ウィル・ハンティング』のランボー教授役で覚えていた。相変わらずいい声で、本作でも抜群だったと思う。『グッド・ウィル・ハンティング』で特に好きなシーンがこれだ。品質は悪いがYoutubeで見つけた。いみじくも、この動画をアップした投稿者も「世界の映画史上最高のシーン」という名前にしている(個人的にそこまでとは思わないが・・・)。

www.youtube.com

この苦悩がすごくわかる。自分も若い頃、それなりに一つの分野で何かを成し遂げようと勉強していた時代があった。しかし、そのうちに気付く。自分よりも圧倒的に賢い奴らが存在すること。自分が凡人にすぎないこと。それは努力なんかでは埋められないものであること。おそらくその分野を知らない人から見れば、その差は大きく感じないだろうが、中途半端に知っているだけに、その圧倒的な差(多くは才能によるもの)に絶望してしまう。フィールドメダルをもらっているランボー教授ですら、そのような劣等感を感じていた。その苦悩は、僕のような本当の意味での凡人のそれをはるかに上回るものだったろう。この映画の中では基本的に「嫌なやつ」の役を演じているが、どうしてもこの役が嫌いになれないのはこのシーンがあるから。そして、ウィルのばつの悪そうな感じも抜群だった。また近いうち観よう。