ハト場日記

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映画『殺人者』マ・ドンソク|サイコパスをどう考えればよいか

これは駄目だ。思い出すことができないよう、できれば見た記憶を消したい。そんな技術が生まれるのをただただ待つのみだが、見てしまったからには、今後何度も思い出すことになりそうだ。久しぶりに見たことを後悔する映画だった。映画作品としては成功と言えるのかもしれないが。

マ・ドンソクといえば、人気が出てからは心温まる役柄が多い。怖い顔をして実はいい人みたいな役だ。そんな中、久しぶりにマ・ドンソクが悪役をやっていると聞き(実際は2014年制作なので、まだそれほど売れていない頃)見てみたが、これはまいった。76分程度と映画としては非常に短い作品なのだが、これ以上は見てられないというのが正直なところ。制作側も余計な説明は追加したくなかったのだろう。

見たことを少し後悔しているとはいえ、サイコパスとはどういう存在なのか、考えるいいきっかけにもなりうる。

サイコパスについて少し見方を変えたのは、以前あるポッドキャストを聞いてから。サイコパスとは何だろうかというのをあーだこーだ話し合う配信だったのだが、そこで「未来はサイコパスというのは病気として扱われ、サイコパスが犯した犯罪の扱いも変わる」だろうという話があった。サイコパスというのは比較的身近にも存在している。政治家にはその特性を持つ人が非常に多いとされている、などなど。

この作品ではサイコパスの「悲しさ」のようなものが描かれていた。短時間に息子があれほど化けてしまうのは、遺伝の影響を示唆しているのだろう。「血は争えない」という言葉も出てきた。私たちは環境による影響も大きく受ける。遺伝子の影響は設計図のようなもので、実際にそれがどのように人格として「実装」されるかは、教育や生活環境が大いに影響する。

ここで問題は、サイコパスに分類されるあの強い衝動のようなものは、どれほど濃く受け継がれるのか。それは教育や環境でどこまで「上書き」できるものなのか。教育の影響で伝わったであろう、あのいじめっ子役の悪さとは次元が違う。

古い村社会では、きっとああいったサイコパス的衝動を持つ人間は、村八分にされ、「排除」されたのだろう。現代社会ではそれはしないが、法を犯した場合、よほど精神状態がおかしくなければ断頭台にだって送っている。

しかし、である。サイコパス的衝動を抑えきれない場合、それは罪になるのだろうか。それを「正常な」人々が裁く権利はあるのだろうか。

今後いつになるかわからないが、犯罪者やサイコパス的衝動を持った人々については、裁くのではなく、隔離する方向に進む気がしている。恐らく遺伝子学などがさらに進めば、このような人々に犯罪を犯すよう促す衝動のようなものは、個人の自由意志ではなんともならないものだとわかるかもしれない。そうなれば、「あなたは悪いことをしたから死刑だ」と言うことはできなくなる。残る方法は社会を完全に分離するしかないのだろうか。だからといって被害者の悲しみ、痛みは消えないのだが。しかし犯罪者を断頭台に送ったところで、そこにはむなしさしか待っていないような気もするのだが。

殺人者(字幕版)

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