ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

中野孝次『清貧の思想』|清貧なる「はみ出し者」の社会はいかなるものか

バブル崩壊のまっただ中とも言える1992年にベストセラーとなった『清貧の思想』。この本のことを知ったのは確かこの朝日新聞の記事だった。

www.asahi.com

なるほど、これは読んでおいたほうが良さそうだと買い求め、しばらく積んでいた。

その後、まったく違うルートで『方丈記』に興味を持ち、セール時に積んでおいたKindle本の現代語訳+解説本があったので読んだ。その流れで、同じシリーズの『徒然草』にも手を出した。

yushinlee.hatenablog.com

yushinlee.hatenablog.com

この2冊の著者・解説者であったのが中野孝次氏。解説がわかりやすく、共感の持てる解釈だったので、方丈記を読みながらほかにも現代語訳を出していないか調べてみたら、そこで『清貧の思想』の著者であることに気付いた。別ルートで興味を持った本が同じ著者だったという、まあどうってことない話ではあるが、個人的には不思議なつながりを感じ「おぅ」と唸ったのであった。

さて本書。鴨長明兼好法師に加えて、良寛西行本阿弥光悦など、先人の逸話や知恵を紹介しながら、本当の人間の生活は何なのかと問う。そしてタイトルにもあるとおり、「清貧」こそが日本人、そして広く人間の生き方に不可欠な思想であると説いている。

2022年の今年からすると、もう30年も前の書籍である。コロナ後の世界を思うときに、また再ブームが来てもおかしくない内容なのだが、そもそもこの30年間で変わることができなかったことを思えば、私たちはなんと愚かなのかと、軽く絶望も感じる。気候変動だってそうではないか。日本がバブルに浮かれる頃から、有限である資源を無制限に使い果たそうとでもいうかのようなやり方。その危うさは問われていた。そして今、ほぼ手遅れの状態になりながらも、まだ変わろうとしない。

この前に読んだピンチョン『ブリーディングエッジ』でも、ある登場人物がこんなことを言っていた。あの911があって、ワールドトレードセンターが崩れ落ち、更地となったとき、私たち(アメリカ人)はそれまでのやり方を見直してやり直す機会があった。しかし、私たち変わらなかった。それどころか、もっと深く堕落したのだ、と。私も311の後、同じような思いを抱いた。これまでのやり方を見直すよい機会だと。「もっともっと」の消費社会に区切りを付け、新しい、成熟した社会を築き始める機会だと。それが何よりの弔いになると。しかし、私たち(日本人)も変わらなかった。そしてアメリカと同じように、私たちもさらに堕落したのだ。

本書に戻る。長明や兼好法師良寛らの思想がうまくまとめられていて、ここから読書を広げていくにはよい入門ではある。しかし、やはりあくまで個人の生き方という視点に限られてしまう。彼らのような「はみ出し者」になるのも結構だし、そこに本当/本来の「正しい」生き方/生活があるとは思う。しかし、はみ出し者になるのはそれほど難しくはない。今問われるのは、ではどういう社会にすればよいのか。このようなはみ出し者が一定の割合生まれれば、必然的に社会は変わるのだろうか。それはいったいどのような社会なのだろうか。環境問題に対応する最後のチャンスが今だとして、ではどのような社会を夢想し、実現に取り組めばよいのか。もう、このようなミニマリスト的な生き方を奨励するだけでは手遅れなのだろう。そういう意味では、残念ながら、本書の賞味期限はすでに切れているのかもしれない。

本書を読みながら寅さんのことも考えた。高度成長まっしぐらという時代から『男はつらいよ』がすでに日本人に受けていたというところに、少し希望を感じる。あれは渥美清/車寅次郎の魅力だけではなく、あの風来坊のような、あの鞄一つでふらりと訪れ、また気がついたらふらりと去って行く、あの姿にどこか憧れ、そこに「あるべき(日本人の)姿を見たのだと思う。そして妹のさくらの「お兄ちゃんはいいわねぇ」という言葉に共感した。俺も/私も寅さんのように生きたい。これは時にさくらやマドンナ役やつぶやくだけでなく、視聴者もまた心の中でつぶやいていた。

日本人の思想の根底には、兼好法師良寛のような、清貧を善しとする思考が流れているのだろうか。ひょっとすると狩猟民族を祖先とする我々人類に共通する考えなのかもしれない。そこにはわずかながら希望を感じる(911・311後に「裏切られた」ことも忘れてはならないが)。