ハト場日記

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酒井正士『邪馬台国は別府温泉だった!』(小学館新書)

邪馬台国別府温泉にあり」という面白い説を紹介する本書。著者はヤクルトの研究所で生命科学、生物工学分野の研究の経験を持つ酒井正士氏。古代史としてはアマチュアなのだが、邪馬台国研究者としては、いわゆる門外漢という経歴も珍しくないと思う。全国邪馬台国連絡協議会の会員としては登録されている。

まず読んだ結論からすると、トンデモ説のようなタイトルだが、内容は至極真面目で、それなりの、いやかなりの説得力があって面白い。もちろん、こういう私は邪馬台国論争についてはほぼ素人なので、判断は甘いとは思う。

邪馬台国の存在については、現時点では魏志倭人伝のほかに信頼性の高い史料がなく、想像に大きく頼ることになり、その結果「自由な」研究者が生まれていると、著者本人も冒頭で書いている。だからこそ邪馬台国の論争は面白いのだろう。そしていわゆるトンデモになりやすい。

これまでの魏志倭人伝の解釈では、方角または距離のいずれかに記載の誤りがあるという前提があった。また、距離にしても航海距離なのか、直線距離なのか。使われている単位は何を表すのか、このあたりも解釈次第となっていた。

本書の著者は、当時の中国は方角を非常に重要視する文化であり、また当時の測量技術は高く、距離の誤りも考えにくいという前提に立っている。そこをベースにし、酒井氏説の新しいところは、末盧国の場所にある。畿内説も九州説も、どちらも末盧国は地名を頼りに松浦群、今の呼子あたりで共通していた。だが、それでは距離的に近すぎるという。記録の距離が正しいとすると(韓国、対馬壱岐間の距離は納得できるが)、末盧が呼子だとすると近すぎる。また方角的にも、次の伊都が現在の糸島だとすると少しおかしくなる。そこで本書の著者によると、現在の小倉の西にある枝光が末盧国であるという。末盧国の意味として「末端に蘆の生える国」という解釈も面白い。これで上陸点が大きく東に移動することになる。周辺にある江川という川が、当時は川幅がかなり広く、内海のように船で通れた(P110)という仮説を基に、そこからは、魏志倭人伝の説明に忠実にそった形で、陸路で邪馬台国へと進む。

伊都国は築上町(P125)となる。奴国については、やはり金印が志賀島で見つかったことでその付近としている説が多い。だが、金印が偽物だったらどうかという話はある(P138)。江戸時代の偽物とみる専門家もいるが、蛇のつまみ部分の手本が当時存在しなかったため、本物であるという説の方が個人的には説得力があるように思う。ただ、たしかに金印が見つかった経緯などは、何度聞いてもできすぎているように聞こえるのも確か。見つかった場所が、これほど大切なものに関わらず、石の間で見つかったというのも、隠したような意図があるため(逃げた先で隠したなど)、必ずしも志賀島周辺が奴国でなくてもよいというのも頷ける。

不彌國が分岐ポイントだったという説も面白い。従来は、ここから投馬国、そして邪馬台国へと続いているという解釈だったが、投馬国と邪馬台国へと続く道が不彌國で分岐していた、つまり投馬国が経由地でなかったと。邪馬台国への旅程として投馬国の記述は必要なかったが、邪馬台国に近い規模の国であったため、どうしても盛り込みたかったのではという解釈である。こうすると、最終的に「水行十日陸行一月」の謎が解きやすくなる。

これにより、邪馬台国は現在の別府扇状地にあったという。魏志倭人伝邪馬台国の描写としても不自然でない。また噴火により邪馬台国の遺跡が見つかりにくかったのではというのも、ポンペイを想起させる。なんともロマンチックだ。この説はやはり面白い。

魏志倭人伝のテキストの情報量は限られ、そこからプロアマ問わず、いろいろな人がいろいろと「解釈」しているわけだ。この説は面白かったが、やはりどこか不毛という気がしないでもない。本当に特定したいなら、やはり怪しいところを掘って調査し、「証拠」を突き止めるしか確実な方法はないだろう。この説で言えば別府なのだが、これから掘り起こすというのは無理な話で、今後の考古学技術の発達を待たなければならない。

繰り返しになるが、面白い説であることは間違いなく、別府方面に行く予定があれば読んでおくと旅のスパイスとなるかもしれない。個人的には、近いうちに宇佐神宮に行ってみたくなった。