ハト場日記

Working, Reading, and Wondering

『韓国の若者 なぜ彼らは就職・結婚・出産を諦めるのか』安宿緑

朝鮮半島にルーツを持つ著者が韓国の若者の声を聞き、「住みにくい」と言われる韓国の現状を伝えたルポ。コロナ直前頃に取材した内容が主なので、まだ情報の鮮度も高い。短いインタビューが多いが、それでも現在の生の声が聞けるのは貴重だ。テレビで見かける現地の街頭インタビューよりも多少は信頼がおける内容だと思う。コロナを経験した今、状況がよくなっているとは思えず、恐らく本書よりもさらに厳しい生活を強いられているのだろう。

それにしても、韓国については人並み以上には知っているつもりでいたが、実際は思っているよりもはるかに厳しい社会だ。物価レベルでは日本とそれほど変わらない印象だが、本書のインタビューに出てくる月給・年収の数値には驚いた。いや、日本も似たレベルだし、恐らく本書で感じる「ヤバさ」のいくらかは日本にも共通しているはず。それにしても、本書にも取り上げられていたが、日本で職を見つけようとしている韓国の若者も多く、日本の方がまだ若干の余裕というか、緩さはある。

今後韓国(そして日本)の若者はどう変わっていけばよいか。本書では最後に「成功者」の例を挙げていたが、そこに希望はないだろう。どの時代だって成功するのはほんの一部。では革命か?いや、恐らく、多様化する生き方・暮らし方を広げていくべきなんだろう。と、日本人としてはそう感じるのだが、意外と過激な革命こそ解なのかもしれない。

隣国から学ぶべきことは多い。韓国での少子化が急激に進んでいるのは事実だが、あくまで程度の差であって、日本と韓国で抱えている問題に共通点は多い。政治家連中はどうかわからないが、どう考えても、市民レベルでは密に情報やアイデアを交換し、連携して未来に取り組む必要があるだろう。

映画『遙かなる山の呼び声』

監督山田洋次、主演倍賞千恵子高倉健。1980年制作。

民子三部作の最後とのことだが、リンクする作品としてはやはり『幸せの黄色いハンカチ』が最初に頭に浮かんだ。特に本作のエンディングを観ると、一瞬『幸せの黄色いハンカチ』の前日譚なのかと疑ってしまうほど。

高倉健もいいのだが、やはりこれは倍賞千恵子の映画。ハイライトは、エンディング前、ふと弱さを見せて高倉健が演じる田島にすがりつく一瞬。このシーンを撮りたいがために本作を作ったと思えるほど。『幸せの黄色いハンカチ』のエンディングで倍賞千恵子が腰を折って泣き崩れるシーンが非常に印象的だったが、それに値する。

前半でのハナ肇の役もなかなかのクズぶりだったが、田島との喧嘩で負けてから一気に舎弟気取りになって、最後はなんかいい人みたいになっていた。あの辺の変わりようは今観ると(当時観たとしてもそうだったかもしれないが)しっくりこない。女性に乱暴しようとするほどのクズなのだが、なんだかそれも「男だから」と、社会的に少し許容されていたのかもしれない。『男はつらいよ』ですら、「嫌よ嫌よも好きのうち」というのを日本的な美徳の一種として扱っていた節があった。時代は変わったということかもしれない。

『一汁一菜でよいという提案』土井善晴

「食べること」について考えることが多くなった。

きっかけは先日読んだ食欲に関する本。それからアナーキズムの本。自分が日々食べているもの・ことについて、自分なりに考えるきっかけになり、また食品業界に対する怒りもふつふつと沸いてきている。

そこで手に取ったのが本書『一汁一菜でよいという提案』。

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本書で取り上げている一汁一菜と言う言葉は、実は少し前から知っていた。知っていたというのは嘘で、聞いたことがあった。それにもかかわらず「知っていた」ような気になっていたのは、やはりその考えのシンプルさ故だろう。「一汁一菜でよい」と言われただけで、ぼんやりとながらどういう食生活を言っているのか、日本語を理解する人には伝わるだろうし、それが意味する一種の開放感も予測できる。

土井善晴さんという人については、以前はよく知らなかったが、その名前は政治学者の中島さんのTwitterで最近よく見かけるようになっていた。一汁一菜というキーワードを目にしたのもそこだろう。顔には見覚えがあったので、昔からテレビによく出ていた人なのだと思う。

タイトルだけでだいたい内容がわかったと読者から反応があったと、文庫本のあとがきにあった。概ねその通りである一方、実際に読んでみるとそれよりももっと深いことが書かれている。しかし、解説で養老先生が言っているように、語り口がすっきりとしていて、簡潔で、読む・考えることの疲れは感じない。自然にそうなっているのだろうが、結果として万人に勧められる本となっている。

肝となる「一汁一菜でよい」という提案とその実践方法は全体の半分くらい。残りは、和食についてであったり、日本に暮らしてきた人々の食生活についての一種の思想が語られている。一汁一菜については納得しかないし、学んだことは多い。個人的にも今後の暮らし方のベースとなるような気がしている一方で、残りの思想の部分は非常に限定された世界の話のように聞こえた。和食を背景としているので日本での暮らしがベースとなるのは当然なのだが、なんだか「やっぱりすごい、日本人」みたいな安易なノリに利用されそうな雰囲気もある。個人的には、お隣の韓国の食事に関心があり、韓国の食事・食生活とも比較しながら読んでいたが、共通点のありそうなところも所々あった。当然、これは違うなと思うところも。ヨーロッパの食文化や、気候がまったくことなる、例えば砂漠地帯の人々の食文化などはまったく知らないのだが、そのような幅広い、様々な文化を見渡した上で、食べることをどう考えればよいのか、知見が得られたらもっといいのに、と思わなくもないが、本書にそれを求めるのも違うだろう。

コロナ禍で気付かされたことも多かった。わざわざ通勤電車に詰め込まれて会社まで通わなくても在宅で済む仕事も中にはあったこと。エッセンシャルワーカーと呼ばれる人々の大切さ。経済活動がある程度止まっても、世界は崩壊しなかったこと。環境的にはむしろよかったこと。ほかにもたくさんあるだろうが、自宅でちゃんと食べることの大切さを考え始めた人も多いはずだ。宅配ビジネスの利用が広がったことはよく取り上げられるが、正しい食生活を考えるいいきっかけにもなっただろうし、最近土井善晴さん(これからは先生と呼びたい)の名前をよく見かけるようになったのも(つい先日もある書店で大々的に特集が組まれていた)、そういう背景があるのだろう。

土井先生については、今後の活動も楽しみだ。政治学者の中島さん経由で知ったこともあり、各方面に非常にオープンな方のようである。そのようなつながりや対話を通じて、また新しい知見や「提案」があるのではないかと期待してしまう。一汁一菜でよいのではないかという本書の「結論」は変わらないだろうが、まさに和食の世界について土井先生自ら語っていたように、その思想はさらに「深化」していくのだろう。

映画『殺人者』マ・ドンソク|サイコパスをどう考えればよいか

これは駄目だ。思い出すことができないよう、できれば見た記憶を消したい。そんな技術が生まれるのをただただ待つのみだが、見てしまったからには、今後何度も思い出すことになりそうだ。久しぶりに見たことを後悔する映画だった。映画作品としては成功と言えるのかもしれないが。

マ・ドンソクといえば、人気が出てからは心温まる役柄が多い。怖い顔をして実はいい人みたいな役だ。そんな中、久しぶりにマ・ドンソクが悪役をやっていると聞き(実際は2014年制作なので、まだそれほど売れていない頃)見てみたが、これはまいった。76分程度と映画としては非常に短い作品なのだが、これ以上は見てられないというのが正直なところ。制作側も余計な説明は追加したくなかったのだろう。

見たことを少し後悔しているとはいえ、サイコパスとはどういう存在なのか、考えるいいきっかけにもなりうる。

サイコパスについて少し見方を変えたのは、以前あるポッドキャストを聞いてから。サイコパスとは何だろうかというのをあーだこーだ話し合う配信だったのだが、そこで「未来はサイコパスというのは病気として扱われ、サイコパスが犯した犯罪の扱いも変わる」だろうという話があった。サイコパスというのは比較的身近にも存在している。政治家にはその特性を持つ人が非常に多いとされている、などなど。

この作品ではサイコパスの「悲しさ」のようなものが描かれていた。短時間に息子があれほど化けてしまうのは、遺伝の影響を示唆しているのだろう。「血は争えない」という言葉も出てきた。私たちは環境による影響も大きく受ける。遺伝子の影響は設計図のようなもので、実際にそれがどのように人格として「実装」されるかは、教育や生活環境が大いに影響する。

ここで問題は、サイコパスに分類されるあの強い衝動のようなものは、どれほど濃く受け継がれるのか。それは教育や環境でどこまで「上書き」できるものなのか。教育の影響で伝わったであろう、あのいじめっ子役の悪さとは次元が違う。

古い村社会では、きっとああいったサイコパス的衝動を持つ人間は、村八分にされ、「排除」されたのだろう。現代社会ではそれはしないが、法を犯した場合、よほど精神状態がおかしくなければ断頭台にだって送っている。

しかし、である。サイコパス的衝動を抑えきれない場合、それは罪になるのだろうか。それを「正常な」人々が裁く権利はあるのだろうか。

今後いつになるかわからないが、犯罪者やサイコパス的衝動を持った人々については、裁くのではなく、隔離する方向に進む気がしている。恐らく遺伝子学などがさらに進めば、このような人々に犯罪を犯すよう促す衝動のようなものは、個人の自由意志ではなんともならないものだとわかるかもしれない。そうなれば、「あなたは悪いことをしたから死刑だ」と言うことはできなくなる。残る方法は社会を完全に分離するしかないのだろうか。だからといって被害者の悲しみ、痛みは消えないのだが。しかし犯罪者を断頭台に送ったところで、そこにはむなしさしか待っていないような気もするのだが。

殺人者(字幕版)

殺人者(字幕版)

  • マ・ドンソク
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映画『白昼堂々』渥美清・倍賞千恵子主演

男はつらいよ』でおなじみの渥美清倍賞千恵子が主演の映画。当初は『男はつらいよ』が始まってからその人気にあやかって作ったような作品だと思っていたが、実際は『男はつらいよ』が始まる前夜、1968年の作品で、時期的には『男はつらいよ』ドラマ版の開始とほぼ重なる。賢妹愚兄の前に、まさか掏摸グループのパートナーと夫婦の役を演じていたとは驚いた。考えてみれば、『男はつらいよ』で人気が出た後では、この2人を夫婦にはしないかもしれない。

倍賞千恵子の実際の出演時間は短く、スクリーンタイム的には渥美清藤岡琢也が主に活躍する。ジャケットにもクレジットにも倍賞千恵子が主演となっていることから、やはり彼女がすでに売れっ子だったろうことがうかがえる。いずれにしても、期待が低かったせいもあるが、今見ても十分楽しめた。『男はつらいよ』ファンの補正も当然かかってはいるから判断は甘い。

スリの手口の甘さなどは酷いものだが、まあコメディ要素だろう。全体を通して軽快な雰囲気が流れているが、背景には炭鉱での厳しい労働など暗い影も見え隠れしている。

最後のシーンがなんとも気持ちがよい。倍賞千恵子の刺青姿にも惚れ惚れするし、渥美清のあっけらかんとした笑顔もいい。これくらい気楽に生きられたらと、いつも思う。

同類の映画としては洋画になるが『オーシャンズ』シリーズを思い出す。あれも好きなシリーズで何度も見ているが、全体を流れる明るさがなんとも気持ちがいい。この映画にも共通することだが、悪いことをしているものの、必ず資本主義的「強者」をカモとしている。この映画では高度成長期に入った日本でぼろ儲けしている(といっても、それほどあくどい商売というわけでないが)百貨店。『オーシャンズ』シリーズではもっとわかりやすいカジノ。こういう設定であれば、私のような庶民でも罪悪感なく笑って楽しめる、というわけだ。

とはいえ、考えてみれば、それをやっているのも、巨大資本となる映画制作会社であって、まあ、なんというか、こういう映画っていうのは、回り回って庶民が自分たちを笑っているようなものなのかもしれない。

まあ、それでもいいじゃないか。

『街道をゆく 6 沖縄・先島への道』司馬遼太郎

急遽沖縄に行くことになり、道中のお供に選んだ「街道をゆく」シリーズの沖縄編。こんなときはKindleが本当に手軽でよい。

本書の行き先となったのは沖縄本島と、先島と呼ばれる石垣島を中心とする離島エリア。沖縄の(主に厳しく苦しかった)歴史を思い出し(想像し)ながら歩く沖縄・先島。本編はどちらかというと紀行色が強く、同行した須田画伯の「奇行」も面白かった。須田画伯は「街道をゆく」シリーズの挿絵を描いている画家さんで、これまで読んだ中でも登場していたはずだが、今回はなんだか特に「輝いて」いた。ひょっとすると司馬遼太郎本人に思ったほどネタがなく、須田さんの描写が増えたのかもしれない。

今更ながら惜しいと思わされたのは、失われた首里の町並み。数年前の火事のことではなく、沖縄戦で焼失してしまった首里全体の破壊である。戦前までは、なんとも美しい町並みが広がっていたという。そのまま残っていれば、京都、奈良、日光と肩を並べる観光地になっていたとあった。沖縄は現在、日本でも有数の観光地となっているが、美しいビーチや自然がメインの観光資源となっている。そこに美しい首里の街がそのまま残っていれば、どれほど素晴らしい景観になっていただろうか。戦争は取り返しのつかない破壊を引き起こす。

 

映画『ムーンライト』

第89回アカデミー作品賞を受賞したアメリカ映画。フロリダ州マイアミの貧しい地域で育った少年シャロン。通称リトル。無口で内気な彼は、学校で"faggot"と嘲笑されていた。そんな彼を少年期、思春期、青年期の3つの時代に分けて描いたのが本作。時折見られる絶妙なカメラワークにより、まるで現場にいるかのような錯覚を覚える。語りすぎず、エンディングの切り方も素晴らしく、思わずため息が出てしまう。

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見事だったのはシャロンの役をそれぞれの時代でつとめた役者。本当に同一人物かのような錯覚を覚えた。ディレクションも優れていたのだろう。大人になってからのブラックは一気に雰囲気が変わるが、最後のケビンのアパートでのシーンで、ふと若かった頃に戻る。ああ、これはまさにあのシャロンだ。あの瞬間、少年時代に一時的に父親役を買って出てくれたファンに教えられた言葉がよぎる。

At some point, you gotta decide for yourself who you gonna be. Can't let nobody make that decision for you.

まさにあの瞬間、ブラックはシャロンであることを選び、自分の道を自ら歩み出した。そのとき、ファンの言葉を反芻するような描写はない。あくまでその現場しか映さない。そしてケビンの腕に包まれているシャロン。そこでスパッと終わる。なんとも潔い映画。無駄なことはしない。これが映画だ。

名前の使い方も隠喩的。少年期はリトルと呼ばれていた。思春期に自分の道を自覚したときは本来の名前のシャロン、そして青年となり売人となった頃にはケビンがつけたブラックという名を使っていた。ブラックというのは確かに売人の通り名っぽいのだが、そこにはその名前を纏い(命名主がケビンであることも重要だ)、自分を守らざるおえなかった姿が見えてくる。そして最後のシーンで、彼はきっと本来のシャロンに戻った。その後は語らない。やはり最後の終わり方が見事だった。